音楽って何だろう その9 私って?青年編

 前回の続きですが、少し詳しく話すと、帝国ホテルが終わったあと、金に目がくらんで又シゴトを頼んでいたら、2ヶ月くらいで直ぐアテがありました。今度はギターの人がバンマスのグループで、ギター、ヴィブラフォン、ベース、ドンカマ(リズムマシーン)と言う編成でした。職場はナイトクラブで、キャバレーと違ってガチャガチャしてないので良かったのですが、その代わりお客が混んでくるとダンスの為の曲や歌謡曲の演奏をしなくてはなりませんでした。お金が目的のシゴトでしたが、ジャズの勉強の為にと言う気持ちも強かったので、もっと条件の良いところを探して直ぐに止めようかなと思いました。不思議なことにその当時(70年代)キャバレー、ナイトクラブでは生バンドを入れるということは、ホステスが居るのと同じくらい当たり前のことでしたので直ぐに次のシゴトも見つかるだろうし、なんて考えていました。ところが、いくらシゴトが有ると言っても、ピアノ、管楽器、ギター、ベース、ドラム、などの楽器と比べるとヴィブラフォンはなかなか需要が有りません。今のシゴトをやりながら次を探そうと思っていたら、いつの間にかバンマスに重宝がられてしまい、ギャラも上げてくれたりして、止めるに止められなくなりました。結構良いお金なので、仕送りが無くても充分やっていけて、自分の車まで持てて、学校に車で通ったりしてました。しかし回りを見ていると、バンドマンは博打と酒におぼれている人が多くて、「このままずるずる流されると、どうもこれは泥沼にはまりそうだな」と思いました。
 何故バンドマンがそうなのかと言いますと、私の様に「ジャズで身を立てる」などと真剣に思って居る人は若い連中だけで、中年のバンドマンは、終戦直後のどさくさの時代に進駐軍のキャンプでプロの演奏家になった様な人が多かったからです。なにしろ、終戦直後というのは人手不足なので楽器を持って東京駅に集まると幾らでもシゴトが有ったそうです。酷い話しでは、殆ど楽器が出来なくても持っているだけで仕事があったとも聞いています。そんな環境ですから、すっかり甘い汁を吸ってきているので、音楽で身を立てるなんて発想は最初から無いのです。軍楽隊上がりで楽器が上手に操れたり、譜面が読める人は相当良いギャラになったそうです。その後進駐軍のキャンプのシゴトも10年くらいで縮小されて所謂「バンドマン」達は、歓楽街のキャバレー、ナイトクラブにシゴト場を求めていったそうです。歓楽街で楽器を演奏する事の動機付けが、音楽をやりたくてなのか、お金になるからなのかで、その人の生き方は随分変わります。そして、どさくさの中でお金が儲かってしまうと、音楽の為に孤高を保って自律的な生き方をする方が「変な人」になる訳で、それこそ酒と博打に走る人が多くなるのもうなずけます。多分現在の日本人の素地は「どさくさの中で儲かった」戦後の経験から作られたものなのでしょう。プライドを持って清貧に生きていても空腹は満たせないし、女にもてない(男にちやほやされない)一回きりの人生なんだから大いに楽しもう、意味や目的はどうでも良いから儲かれば良い、物欲と性欲が満足してればそれで良い、と言う空気感の蔓延はこの時代に生まれて、高度成長期にそれこそ成長して、バブルで確立したのでしょうね。現在の中国はちょうど日本がたどった事をやっているように見えます。その傍若無人な感じは思わず眉をひそめてしまいますが、よく考えると日本が過去にやってきたことを踏襲しているだけなのですよね。まるでアメリカで起こったことが後追いするように日本で起きるのとそっくりです。
 さて、その当時すでに「バンドマン」と言う言葉の裏には蔑みの色合いが含まれていました。そして、よく新聞の三面記事に、麻薬、暴力沙汰に絡んで「バンドマン誰それ」と言う記述が有りました。私たちは、そんな扱いを半ば自虐的に「士農工商犬猫ゴキブリバンドマン」と言ってました。生産性が有る仕事でもなく、社会的に有益な事をしているわけでもなく(酒、麻薬、女たらし、、、)当然の事だと思っていました。しかしその後、新聞記事からいつの間にか「バンドマン」という書き方がなくなりました。それは80年代になると急速に生演奏のお店が少なくなって行くことと呼応しています。所謂「バンドマン」自体が駆逐されていった時期と呼応しているのでしょう。よく日本の文化で世界に誇れる物は、漫画(アニメ)、ゲーム、カラオケといわれます。その一つのカラオケに生バンドは駆逐されて行ったのです。その所為で廃業した「バンドマン」は沢山います。そして遂に新聞記事から「バンドマン」の表記が消え、「ミュージシャン」や「ジャズミュージシャン」と書かれるようになります。80年代に車でひき逃げをしたピアニストがいたのですが、新聞記事に「ジャズミュージシャン誰それ」と書いて有ったのを見て、なんだか妙に居心地の悪い気分になったのを覚えています。所詮社会的にはまだまだ低く見られているのだから、名前だけ立派な扱いをしても本質は変わらないだろう、と思いました。それこそ「住所不定無職」「乞食」を「ホームレス」、学校の「小遣いさん」を「主事さん」、「お手伝いさん」を「家政婦さん」、「プータロー」「フーテン野郎」を「フリーター」などと耳障りの良い言葉に置き換えることで、かえって意味が分からなくなったり、本質を隠す作用をすることでむしろ事態が悪くなる事と同じだと思います。「バンドマン誰それ」と書いてくれる方が安心する様に思えました。こういう言い繕うこと、言い換えることで表面的に美化していく傾向は決して良いことでは無いと思います
 そんな環境にいましたので、出来るだけ楽器の練習にも精を出して「自分の目標は違う!」と心に言い聞かせました。シゴトで拘束される17時から24時以外は出来るだけ学校にも行って、学校の空き地で楽器の練習をして、というギリギリの日々を送っていました。今にして思えば青年の純粋さだけで頑張っていたんだな、と思います。
 その時の時代背景をもう少し 詳しく見てみましょう。
 サンフランシスコ講和条約で一応独立国として承認されて、それによって進駐軍のキャンプは縮小されていきます。当然進駐軍のキャンプで演奏していたバンドマンは仕事を失って、歓楽街へと流れて行きます。たまたま高度成長の波に乗って増え続けたダンスホール、キャバレー(本当のキャバレーでショウを中心としたお店です)のおかげで仕事は直ぐに見つかった様です。生バンドを入れてると良い店、と言う暗黙の了解が出来たことにも助けられたようです。店はバンド単位で契約していたので、バンドマスター(バンマス)はギャラの安いメンバーが欲しいし、かといって質を落とすと店との契約が続かないので、その兼ね合いで頭を悩まします。逆にメンバーは腕が上がればギャラの良いバンドに行きたがるのは当然ですから、人気のあるバンドには黙っていても腕の良いのが集まって来る、という実に明快なシステムが出来上がっていきます。従って横の情報交換も盛んに行われます。所謂「引き抜き」は日常茶飯事で、そのおかげで皆切磋琢磨したでしょうし、お店が終わってから演奏できる店に集まってジャムセッションで腕を競い合って、自分の株を上げるのに必死になっていたはずです。そして、アメリカから入って来る最新のジャズをいかに早く取り入れているか、いかに上手に真似しているか、が善し悪しの基準になっていました。そのうち自然淘汰される形で、良いバンドはラジオで取り上げられて名を知られるようになり、バンド間の格差が(序列)が出来はじめ、それが進むとバンド名もさることながら「何々奏者のだれそれ」という具合に個人にも注目が集まるようになります。このあたりからはっきりと「ジャズミュージシャン」と「バンドマン」に分かれていきました。一方は聞いて貰える場での演奏、一方は踊りの為の音楽の演奏もしくはショウ(歌手や踊り子)の伴奏、と言う風に職域が分かれていきます。そして、鑑賞して貰えるグループの中でも名の売れたバンドは「労音」などの鑑賞団体で全国ツアーをしたり、ラジオに出演したり、レコードを出したりと言う活動が出来ました。勿論若いバンドマンは聞いて貰えるバンドで活躍したい人が多い訳で、そういうバンドに入るため(入れて貰うため)誇大広告、策謀陰謀等々色んなドラマが展開されたのは言うまでもありません。ただし、ダンスホール系のバンドでも、ラテン音楽が大流行した頃は聴いてもらうバンドなんか太刀打ちできない程の人気を誇っていたようです。その流れは60年代から顕著になり、ラテンの次はツイスト、ゴーゴーなどのダンスの大衆化で益々ダンスバンドはもてはやされます。それまでジャズの曲でダンスをしていたのが、ラテン音楽の登場で、ジャズを越える大衆音楽がドンドン出てきます。その流れで60年代中頃は全国津々浦々まで「ゴーゴー喫茶」ができていて、ちゃんとバンドが入っていました。ここのバンドは勿論ロックンロールやリズムアンドブルースのバンドです。そしてキャバレーよりもっと高級でショウを楽しむよりホステスの魅力を前面に出して客を呼んでいたナイトクラブと言う夜店も増えてきて、そにはコーラスバンド(不思議とメキシコ系の音楽かハワイアン系の音楽を母体にした歌謡曲が多かったのです)が根を下ろして行きます。贅沢な事に、儲かっているナイトクラブはバンドを二つ雇ってコーラスバンドと交互に演奏するジャズのコンボ(少人数編成)が入っていました。そして、大抵コーラスバンドは他の店と掛け持ちしてるので、バンドチェンジに遅れることが多くて、売れてないジャズコンボは「ちぇ!ラスコーのやろうがよ」と文句を言ったものです。勿論昔ながらのキャバレーにはジャズ系のビックバンド(標準では17人編成ですが、予算の都合でナインピースなどという9人編成の所も多かったです。)が入っていて、60年代ほどバンドマンの数が多かった時期はないでしょう。そして60年代は東京オリンピックの所為で飛躍的にテレビが普及して、バンドマンの活躍する場も増えました。歌謡曲の伴奏は必ずビックバンドが引き受けてましたから歌謡番組の数だけシゴトが有った訳です。そして、テレビのおかげで地方での歌謡ショウのシゴトも増えるわけですからバンドマンにとっては黄金時代だった訳です。流石に「グループサウンズ」というバンドブームの時には「バンドマン」は危機感を持った様ですが、その時を乗り切った人は実力がある人ですから、ブームが去った後はその反動のようにシゴトに満ちあふれていたようです。何しろ、録音機の飛躍的な発展でバンドマンの中から「スタジオミュージシャン」という録音の仕事しかしない人達が現れ、その稼ぎ方は半端では無かった様です。テレビ、ラジオの音楽番組やドラマの音楽、映画音楽(特に日活ロマンポルノ)そして何と言ってもカーステレオ用に開発されたエイトトラックと言うカセットテープのシステムが世界に冠たる「カラオケ」に用いられ、徐々に世の中に浸透していってそのシゴトも増えていきます。需要が多いので、スタジオミュージシャンの中にはやっつけ仕事でエイトトラックの録音をバンバン請け負って、それが結果的にバンドマンの仕事を奪って行くことになって行きます。何しろ、それまではギターかピアノ一本で、しかもお世辞にも上手とは言えない「センセ」達のデタラメな伴奏で歌っていたお客さんが、ちゃんとしたオーケストラの伴奏で、キーも変わって唄いやすくしてくれるのですから、普及しない方がおかしいのです。ナイトクラブに変わって「カラオケスナック」と呼ばれる物が70年代中盤から全国に普及し始めます。ナイトクラブもバンドを解雇してカラオケの機械を入れる店が徐々に増えていきます。そして80年代に入ると、生バンドが入っている店は数えるほどになってしまいます。銀座では70年代の初めから徐々にバンドはドラムを入れない形、ピアノだけ、そして演奏は綺麗な姉ちゃんがピアノを弾いているスタイルに変わって行きます。流石に銀座だけあって全国の歓楽街の先鞭を切っていたのでしょうね。結局今にして思えば、目先の欲に駆られた「バンドマン」が多くの「バンドマン」の仕事を奪って行ったのです。実に皮肉なものですね。そして最後に待ち受けていたのはコンピュータ音楽です。なまじっか中途半端な「バンドマン」は「打ち込み」音楽の前にも敗北していきます。この事は現在の音楽事情を如実に表してますのでじっくりと書いていこうと思っています。

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