音楽って何だろう その8 私って?青年編

 さてさて「もしもツアー」から戻って中学2年生で木琴教室を止めた後の話を進めましょう。私の弟の話はしましたが、音楽を何時までもやることより、弟みたいな子を直せる医者になりたいというのは、かなり小さい頃から思っていました。その為には、大学の医学部に行きやすい所謂「良い高校」に進学しないと駄目だな、という事も真面目に考えていました。田舎の子供にとっては田舎の子供であること自体がハンディーキャップなのですが、努力の結果なんとか北国で一番「良い高校」言われている高校に進学できました。中学2年で木琴教室を止めた後はテニスに打ち込んだり、陸上の走り高跳びに取り組んだり、とスポーツも一生懸命やりました。高校進学後もテニスクラブに入って、典型的な「運動部の男子」をしていて、友達はビートルズファンを共通項に出来ていってギターを弾きながら皆で歌って楽しんでいました。キリスト教系の学校だったので自由な雰囲気があるし、先輩の締め付けはないし、このまま行きたい大学の医学部に行ければ最高の高校生活だな、と思っていました。ところが、一年生の秋の文化祭で私の人生を決めてしまう事になるトンデモナイものと遭遇してしまうのです。軽音楽クラブはビートルズとかローリングストーンズを演奏(とてつもなく上手でした)しているから、ということでビートルズ大好き仲間とその発表を見に行ったときの事です。お目当てのロックバンドには大いに感動して歌も一緒に歌って、さんざん楽しんだのですが、もう一つのバンドは今まで聞いたこともないくらいカッコイイ音楽をやっていました。言葉では知っていましたが「ジャズ」と言う音楽で、その時は「ボサノバ」を主に演奏していました。世の中にこんなにカッコイイ音楽(所謂Coolってことなんだ)って存在するのか、と思えるくらいしびれてしまいました。演奏も非常にレベルが高かったと思います。その時のギタリストは後にテナーサックスをマスターしてジャズ演奏家になりましたし、ピアニストもジャズ演奏家になりました。およそ高校生のレベルでは無かった様です。すっかり打ちのめされた私は、自分でも演奏したいと思うようになり、高校2年になったとき、意を決して上手なピアニストに「クラブに入れてください」と頼み込みに行きました。「楽器は何が出来るんだ」と言われて木琴しかできないので「木琴です」というと、「ジャズでは木琴なんてないぞ」といわれて、更に「ヴィブラフォンだったら凄いのがいるけどな。ヴィブラフォンは出来ないのか」と言われて、黙ってしまいました。何しろヴィブラフォンという楽器を持っても居ないし弾いたこともないし、テレビのワイドショウでは見て聞いていたので知っていましたが、キンキンキラキラした高そうな楽器であることは確かでした。そうか、駄目かと思ってショックでした。相手も意気消沈している私を見て「まあ木琴でヴィブラフォンのつもりになってやってみるか」と言われて一も二もなく「宜しくお願い致します。」と言って早速木琴を送ってもらって、学校に運んで仲間に入れて貰いました。(因みに学園祭でのロックバンドでギターを弾いていたのは「吉野藤丸」と言う人で、後に「将軍」というバンドで活躍して知る人ぞ知る凄腕のギタリストです。同時期に同じ場所で色んな才能が花開く事ってあるのですね。)
 しかし、それからが大変でした。ビートルズの曲をギターでコードを弾きながら歌っていたので、コードネームと言うシロモノには少しは慣れていましたが、それを基にアドリブ(即興演奏)しろと言われても何も出来ないのです。私はてっきりジャズも演奏の内容は全て譜面に書いてあってそれを覚えてやっているのかな、と思っていたのですが、クラブの練習のとき渡されたのは数小節のメロディーとそのメロディーに付いているコードネームだけで、後はアドリブしろと言うではないですか。まいりました。でもピアニストもギタリスト(クラブに入ったときは卒業していました)もそうして演奏していたのです。自分にも出来ないわけは無いと思いましたが、取っ掛かりが無いことにはどうしようもないので「どうやったらアドリブって出来るようになるのですか」質問すると「まずレコード聞いてコピーするのだよ。そして、このコードでこういうメロディーを弾いているから、こういうコードの時に応用しよう、という風に増やして行くんだよ」「だから最初はコピーしたことを弾けるようにしな」と言われて、そのとおり試してみてもレコード通りになりません。所謂ジャズの持っている独特の唄い回しとか、メロディー音はともかくリズムが上手く弾けません。「おまえはもっともっとレコード聞いてセンスを養わないと駄目だな」と言われ、それから練習が終わったら皆でよく「ジャズ喫茶」にレコードを聴きに行くようになりました。そこで色んなレコード聞いて(聞かされて)最初はヴィブラフォン(ミルトジャクソン)の演奏したレコードを聴かされて、だんだん色んなレコードを聞かされるようになりました。何の先入観(予備知識)も無いのに、マイルスデービスの「Something Else」とジョンコルトレーンの「A Love Supreme」には打ちのめされ、いよいよジャズの魅力の虜になり泥沼に足を踏み入れる羽目になっていきます。おまけに悪いことに、このころは学生運動(全共闘運動)が最高潮のときで、ジャズはアメリカの人種差別や反戦という社会問題と正面から向き合っていると言う反体制的な雰囲気があって、通っていた学校は「頭の良い子」が来る学校だけに社会問題にも関心の有る生徒が多く、遂に寮問題からベトナム問題を切掛けに学校の中も大騒ぎになってしまいました。もう頭の中は24時間「ジャズ」と「マルクス」になってしまいました。当然医学部なんて可能性ゼロにまでなってしまって、「革命的なジャズ演奏家」を目指して東京に出ていくことを画策し始めます。何故なら、東京でしかそれが実現できないと思ったからです。今思うとホントニこれが笑わずに書けましょか、ってなもんです。
 運が良いのか悪いのか、日本で一番お金のかからない東京の大学に受かってしまって、勇躍東京に出てきました。早速アルバイトして、先ずは高校2年生の時からの懸案だったヴィブラフォンを買います。勿論安物です。一年先に東京に出てきていたピアニストを訪ね(浪人していたので学年は同じですが)早稲田のモダンジャズ研究会に入部します。ピアノが置けるアパートを見つけてピアニストと共同生活を始めます。彼にはみっちりと楽典的な事を仕込まれました。有り難かったです。そのうち彼女が出来たピアニストは出ていって、今度はかなり先輩のドラマー(身分は早稲田大学第一文学部の学生)との共同生活になります。この人もプロになりましたが、その当時彼は家に居るときは一日中練習していて(殆ど修行僧の様にストイックな生活でした)私は彼から何かに打ち込む姿を教えられました。このころには「革命的なジャズ演奏家」なんて惚けたことは流石に思ってなくて、ジャズだけに打ち込んでいました。そう言う風に打ち込めたのも、少し腕が上がると、キャバレー、ナイトクラブ、ホテルのラウンジなど演奏の仕事はいくらでもあったので、そう言う時代背景も影響していたと思われます。本当に学生がいくらでも演奏の仕事が出来た良い時代でした。70年代中頃まで音大生も普通大学の学生も大人に混じって「バンドマン」をしていました。へたすると、学生が仕切って人の手配をしている店も有りました。私も19歳になって直ぐに「シゴト(ゴトシ)」を色んな人に頼んでいたら、程なく話が来ました。それはナント一ヶ月だけだけど、帝国ホテルのラウンジでの演奏の話で、その当時誰もが知っている「平岡精二」さん(マリンバのスター平岡洋一さんは叔父さんになるそうです)のバンドのバンド全部の「トラ」でした。(因みに「トラ」とはエキストラ転じて「トラ」になったそうです。意味はレギュラーの人が出来ないときにその人の代わりに演奏する事・人ということですが、なぜそう言う意味で使われる様になったのは分かりません。と言うのも映画でエキストラは「その他大勢」のことですから)なんでも、「平岡精二」さんのバンドは12月一杯スキー場の方で演奏することになったそうなので、急遽事務所がトラバン(代理のバンド)を探していたそうで、たった一ヶ月のトラなんて大人のバンドマンが受けるはずもなく、学生に(しかも相当下手だったと思われます)におはちが回ってきたと言う次第です。しかも最初の「シゴト」をバンマスという立場でこなさなくてはいけなくなりました。要するにメンバーを集めなくちゃイケナイと言うことです。ですので、初めての私は最初から息切れしそうになっていましたが、ダンモ研(早稲田モダンジャズ研究会の略称)の人達に手伝ってもらって何とか一ヶ月乗り切りました。たかだか一ヶ月の代理出演なのに、クレームはバンマスに来る物なのでメンバーの演奏のことから、ステージ上での態度から、色々注文を出されて、演奏以外でも気を遣って「これが終わったらもう二度とやらない」と心に決めていました。それにも関わらず、終わったとき学生には有り余るお金を頂いて(新卒初任給の2倍は有ったと思います)直ぐに心が砕けました。まだまだまっとうな道を選択できる場所にいたのに、それからは、直ぐに「ハコ」(毎日同じ店で演奏するシゴト)のバンドに雇って貰って夜はナイトクラブで演奏、昼は学生と言う二足のわらじ生活が4年間続くことになります。そして、親には「卒業までの仕送りを先にまとめてくれないか」と相談を持ちかけ、100万円近い楽器を購入して、生活費は演奏でもらうお金でしていくことになります。おかげで大学は卒業するのに6年もかかってしまいます。ただ、この間色んな社会を垣間見て、自分は今こんなナイトクラブで演奏しているけど何時かはジャズで身を立てるぞと、楽器の修練には異常な執着で取り組みました。

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