音楽って何だろう その7 私って?子供編
 かく言う私は、何故この様な事を文章にしてまで言及しようとしているのか、と言うことを考えて見ました。自分は何の為に音楽をやっているのだろう。どうして、この年になるまで打ち込んで来られたのだろう。私を虜にしてきた「音楽って何だろう」が素朴な思いつきでした。そうしたら、人は何故感動するのだろう、と言う問題にぶつかりここまで書いてきました。一つの結論として、音楽には色んな要素が有るけど、これは音楽だけの要素じゃない、これも違う、と言う具合にそぎ落としてくると、その人の持っている等身大の「空間性」「時間性」が、表現(音楽)されている「空間」「時間」と共鳴したとき「感動」という心の動きが起きるのだ、ということが導かれました。ちょっと漠然としていますので、こういう事をやってみます。ひな形というかたたき台というか、私が音楽と関わってきた歴史を書くことで(私小説?ダセー!我慢して)具体的に今まで書いてきたことを検証してみようと思います。
 私が音楽と関わる様になったのは、小学校1年生のときでした。ぺーぺーの国鉄職員の長男として生まれたのですから、そしてとんでもなく貧乏でしたから、そしてそして田舎町でしたから子どもにお稽古ごとをさせるなんて、ましてや音楽の手ほどきをさせるなんて、恐らく相当の金持ち以外思いも寄らないことでした。1960年あたりでは大多数が貧乏人でした。体も大きく、父母の愛に包まれて(甘やかされて)育った私は、幼稚園では活発だけどちょっと困った子だった様です。小学校の入学式で知らない男の子と喧嘩するは、その割に直ぐ泣くは、で男の子とより女の子と仲良かった様な気がします。担任の先生は若くて綺麗な女の先生で、大好きでした。
 入学して少し落ち着いてきた頃、私はとんでもないことをしてしまいました。多分それまでにも担任の美人先生にとっては「ちょっとね、、」という子どもだったのでしょうが、この行動で「この子は何とかしなくては」と決心したようです。
 このころは、テレビが未だ未だ出始めの頃で、宣伝と言えば新聞広告かラジオです。でも新聞を取っていないしラジオも無い家庭に何かを宣伝するときよく使われたのが「降ってくるビラ」です。空から降ってくるのです。どういう訳かその時代、ヘリコプターが頻繁に町の上を飛んでいて、たまにビラも撒いていました。今でも戦争時にアメリカ軍が敵国民への宣伝の為にやるでしょう。恐らく太平洋戦争のアメリカ軍のやり方を真似していたのではないかと思われます。
 その日は爽やかな晴天に恵まれた良い日で、席替えが終わったばかりで、私は運動場に面した窓際の真ん中くらいの席に座って2時間目の授業を受けていました。授業が始まって少しすると「パタパタパタパタ」とかすかに耳慣れたヘリコプターの音が聞こえてきました。音がだんだん大きくなってこちらに近づいて来る気配です。私は「学校の上に来たらドウしよう!」ともうワクワクした気持ちになっています。この時ほど窓際で良かったと思ったことはないでしょう。そして想像したとおり「デュルルルルルル」と大きな音になって、操縦している人の表情が見えるくらいの近く学校の上に飛んできて、しかもビラを撒き始めたではないですか。どんどん運動場にも降ってきます。もう私は何も考えられません。ばーっと窓を開けて運動場に飛び降りて、ビラを拾い集め始めました。その後の事はあまり覚えてないのですが先生に手紙を持たされて、その日のうちに母と学校に行ったのは覚えています。
 未だ小学校一年生になったばかりなので、先生と母の話の内容は良く覚えていませんが、後に母が言うには「先生がこの子は問題児になる可能性があるので、何か習わせたらどうですか」ということだったらしいです。落ち着きがなくて、思ったことを直ぐ言ったりやったりするので、お稽古ごとをする事で我慢することを身につけさせようと思ったらしいです。「落ち着きがなくて、思ったことを直ぐ言ったりやったりする」は今でも私のキャラクターですから、三つ子の魂とはよく言った物で、直るものではないようです。
 それはさておき、最初にも書きましたが、貧乏人がお稽古ごとをするなんてえのは、思いも寄らないことだし、謝礼も払えません。先生もその辺は良く分かっているので、ある提案をしてくれました。「私の主人(なんとこの先生は新婚で同じ学校の先生と結婚していました)が趣味で色んな楽器を扱えるので、(別に音楽の先生ではなかった)これから音楽室へ行って均ちゃんの好きな楽器を選んで、それをお稽古することにしましょう」というものでした。本当にご主人だった男の先生は音楽が好きで子ども達に楽器を手ほどきして楽しんでいたようです。音楽室で私は自分では楽器を選べなかったと思います。そこで男の先生が「活発な子だから、叩く楽器にしよう!」と言って木琴をする事になったようです。チャントした記憶が無いのですがそのままやり続けたようで、決まった曜日の決まった時間に音楽室に行って男の先生に指導して貰ったようです。それにしても「落ち着きがなくて、思ったことを直ぐ言ったりやったりする」子が良く続いた物だなと思います。多分木琴と言う楽器も面白かっただろうし、上達して誉められるのも好きだっただろうし、男の先生も好きなタイプだっただろうし、何よりも私の父が少し譜面が読めて自分もギターを弾いたりハーモニカを吹いたり、と言う趣味を持っていたので、何かしら応援して手助けしてくれたのが大きかったと思います。そして何ヶ月か続いて先生もこれは続けられると思ったのか「大作」に取り組まされた覚えがあります。ソラソミファソファレドッドッドッーという「ガボット」です。途中ミソファ#ソラソファミレソシソという早いパッセージが出来なくて一生懸命練習したのを覚えています。泣きべそかいて悔しがった事もあったそうで、そう言うことから思えば根は真面目な子だった様です。これも「三つ子の魂」です、と、胸を張って言えます。
 でも、2年生になったとき男の先生は転勤になってしまい、どうしようかと言う話になりました。と言うのも小さい子の吸収力は恐ろしい物でこのまま止めてしまうのはもったいない、と言う感じまで上達していたようです。そこで、男の先生の手ほどきを、たまに見に来ていた父が見よう見まねでそのまま引き継ぐことになったそうです。仕事が終わった後毎日教えてくれました。でも音楽的なことよりも、上手に演奏するための訓練ですから、父が「ドレミ」と口で言った事を私が楽器で演奏する、という方法です。おかげで、譜面を自分で見ながら演奏する力は残念ながら着きませんでした。サーカスの熊だったわけです。要するに、現在の「英才教育」とはほど遠いものだったのです。
 もう一つ私が上達した理由の一つに私の弟の所為があります。私の弟は脳性麻痺だったのですが、どういう訳か音楽が好きでした。生来体の弱い子なので、直ぐ風邪をひいて体調を崩してしまうのですが音楽が聞こえていると機嫌良くしていました。それが分かったのは、ある日私が木琴の練習をしていて弾くのを止めると、弟が泣き始めました。最初はまた気分が悪くて泣いているのかな、と思っていました。でもどうやっても泣きやまないので、母が「おにいちゃん、木琴弾いてごらん」と言われて弾き始めると泣きやむではないですか。偶然だろうと思って弾くのを止めると、又泣き始めます。それじゃ、と言うことで木琴を弾くと泣きやみます。もうこれで確定でした。弟は私の練習する音楽で心安らかになっていたのです。まいりました。それからというもの、弟がぐずると母が「おにいちゃん木琴弾いて」と言われて、弾くと泣きやんで機嫌が良くなります。その繰り返しの日々が続いて、嫌がおうにも演奏の腕は上がって行きました。弟に練習させられ、腕が上がったわけです。それからと言うもの、私が木琴の前に立つと、弟は喜んで体をずって来て木琴の下に入って飽きることなく楽しんでくれました。今でもその姿を思い出すと胸が締め付けられる思いです。
 そうこうするうちに、又一年が過ぎて、生来運動神経が良かったのか、それ以上に弟のおかげなのか、その上達ぶりはもう父の手に負えない、と言うことになったようです。私の住んでいた町から汽車で一時間ほどの大きな都市に木琴の先生がいる、という情報を仕入れてきた父は、私をその先生に託すことに決めたようです。母方の叔父さんに連れられて初めてその先生のお宅に行ったことは今でも鮮明に覚えています。その先生のお宅にはちゃんとレッスン室が有って、見たこともない大きな木琴(その日から木琴のことをマリンバと言うのだと知りました。)が3〜4台置いてあって、先生がピアノで伴奏までしているではないですか。私が行った時たまたま前のレッスンの子達が演奏しているのを見学できたので、設備に圧倒されましたが、「そうか都会の子だから凄く上手なわけではないのか」とも思えました。前のレッスンの子達が帰った後、先生が「木琴は何年やっているの?」と質問してきました。小学校3年生ともなれば、大人の表情から何を考えているのか少しは想像がつくようになります。ああ先生は「こんな田舎の子がどれほどのものか」と思っているなと直感しました。多分レッスン室の凄さだけを感じていたら臆してしまっていたかもしれませんが、先ほどの子達がそれほど上手じゃないと思えていたので、「ようし、じゃあやってやろうじゃないか」と意気込んで「何か弾いてごらん」と言われて「金婚式をやります」と言って演奏を始めました。最初先生は横向きで右手だけで伴奏していましたが、直ぐにピアノにちゃんと向いて両手で伴奏してくれました。「やった!」です。その場で先生は「じゃあ来週からこの時間に来て下さい」と言ってくれました。先生の言った時間のレッスンはその教室で一番上手な小学生のクラスだと言うことは程なく分かりました。嬉しかったのは確かですが、決定的に嫌なことがありました。
 次の週からのレッスンの最初に、先生が同じクラスの子達に「浜田君は一時間かけて富良野から来ているんだよ」と紹介してくれた時、「なんで、あんな田舎の子が」と言う表情が皆の顔から読みとれました。この時も「コンチクショウ」です。お前らに負けてタマルカ!まったく不純な動機で練習に熱が入った様です。実際レッスンで取り上げられる曲に対して、良い曲だな、とか好きな曲だな、なんて思ったことはありませんでした。絶対あいつより上手に弾いてやろう、と言うことしか考えていませんでした。おかげでテクニックは付きました。そんな事を7年も続けて流石に中学2年生一杯で止めました。こんな女子ども(失礼)がやるような事はもう続けられない、と思ったのです。木琴で演奏する曲に何にも魅力を感じられないし、自分の好きな曲を木琴で弾いてもぜんぜん良くなかったからです。
 そして、私が自ら有る音楽の虜になり益々木琴から気持ちが離れていくことになり木琴を止める決定的な引き金になりました。それは、私が中学校1年生の時のことです。夏休みに遊びに行っていた高校生の従兄の家で何気なくレコードを掛けてみてみました。音楽を聴いてみる、というよりレコード針のアームが自動で動くと言う最新式のステレオセットに興味が湧いたのだと思います。そして、たまたまレコードの束の中で一番手近にあったのを掛けました。それはビートルズの「HELP!」と言うアルバムでした。2、3年ほど前から「エレキ」ブームと言うのがあって、高校生の中では「エレキギター」を持って「ザ・ベンチャーズ」の曲を上手に弾けるのが「カッコイイ」ことの条件でした。そして直ぐ後から「ビートルズ」が連日ニュースになるほど社会的な大騒ぎになっていました。ビートルズも「エレキ」と言う文化の中に一緒くたにされていました。勿論私も小学校4年生くらいから知っていましたが、「この騒ぎは何なんだろう?」という程度の認識でした。私の高校生の従兄弟も多くの高校生の例に漏れずドップリ「エレキ」文化に浸かっていました。家がお金持ちの所為かエレキギターもステレオもレコードも沢山持っていました。それまで遊びに行っても特にそれらのレコードを好んで聴いた訳ではなくて従兄弟の部屋で遊んでいると聞こえていた、という事でした。自分から聞いてみようと思ってステレオを操作したのは初めてでした。アルバム「HELP!」に針を落とした瞬間体の中に電気が走りました。「これは何だろう!もう一回聞きたくなるのは何故なんだろう?」と思いながら、本当に何回も聞きました。最初にコカコーラを飲んだときの「ギョエー!でももう一回飲みたい!」という同じ感じを受けました。音楽で、こんな不思議な気持ちになったのは初めてでした。それからというもの、その従兄の家に盆と正月に遊びに行ったとき必ず貪る様にビートルズのレコードを聴きまくりました。今まで気に留めなかった過去のビートルズのレコードも片っ端から聴きました。そして金持ちなので何時もビートルズの新譜は揃っていましたので、新しいレコードも直ぐ聴けました。そしてビートルズはリアルタイムで私が高校2年生になるまで新譜を出し続けてくれました。こんな私ですので木琴に何の魅力も感じなくなったのは当たり前だと思います。中学一年の秋に父にねだってギターを買ってもらって(エレキは当然駄目で、クラシックギターでした)自分でコードを探り当てて、ヘルプを歌えたときはもう最高でした。すらすらと最初に英語を言えたのが教科書ではなくて「When I was young so much younger than today」というヘルプの詩でした。そして初めてワクワク出来る音楽に巡り会えて、次はどんなレコードを出すのか楽しみまっている、なんて事も初めてのことでした。それに反比例して父の顔が渋くなって行くのも分かっていましたが、もうどうにも停めようがありませんでした。中学2年生まで木琴を続けたのもそんな父への、せめてもの罪滅ぼしだった様な気がします。
 さて、お稽古ごと、しかも今のような確立された音楽教育システムじゃない、殆どインチキ臭い手ほどきをうけた私は、相当上手に木琴を演奏できる様になっていたのに(ただそれだけです。音楽的な教養は全くなかったと言えます)結局止めて、そして他の音楽(主にビートルズ)の虜になって、6歳から14歳まで続けたことは何だったのだろうか、と自問する結果になっていました。後年、似たような環境で育った人達に会う機会が多々ありましたが、もし!があるなら、私の人生は違った道筋もあったかもしれないと思うようになりました。
 私がレッスンに通っていた木琴教室は「日本木琴協会」の支部として運営していました。平岡洋一と言うマリンバのスターがいて、新しい楽器として注目を浴びるようになって、朝吹英一という人が普及に乗り出して、「日本木琴協会」を作って、私が通い出した頃はそれなりに全国的に広がって居たようです。
 もしも、その一、
 私が東京芸大の別科打楽器で実技の勉強をしていた時、師匠の高橋美智子さんも、学生の中の何人かも「日本木琴協会」の木琴教室に子どもの時通っていました。先生が音楽大学を出ていた木琴教室は、そこの出来の良い子を音楽大学に行かせていたようです。私の先生は教育者としては偉い人だったらしいですが、そう言う事はしていませんでした。もし最初から音楽大学に行っていたら、つまらない人生だっただろうな、と思います。だって音楽大学って全然面白いところではないからね。ある種の偏った人の集まりです。色んな人が居るから面白いのだから。
 もしも、その二
 芸大に来ている子達を見ていて、都会の子はちゃんと子どもの時から音楽大学へ行くと言う選択肢も持ち合わせていた、と言うことはイナカモノの私には驚きでした。北国にそのころ音楽大学など無くせいぜいあっても教育学部の音楽関係という程度です。はたして私が都会で生まれていたなら、音楽大学へ行く事も考えたのだろうかなと思います。都会で貧乏人だったら音楽との出会いは無かったのかもしれません。都会ではヘリコプターでビラも撒かなかっただろうし、先行きを心配して音楽のお稽古を薦める先生にも出会わなかったかもしれません。でも都会の金持ちの子だったら音楽大学の事も考えただろうけど、とんでもなく嫌なヤツになっていただろうな、と思います。田舎の貧乏人の子どもの私は、たかだか近隣の都市の子ども達に「負けてタマルカ」と言う気持ちだけで偽音楽を続けたのですから、最大の敵は都会の金持ちの子どもということになりますね。
 もしも、その三
 私は、有る時期しっかりとしたシステマチックな音楽の訓練を受けていないのがコンプレックスになっていました。譜面を見ながら演奏する(初見演奏)、譜面を見て歌える、音感のトレーニング(ソルフェージュ)、楽典、ピアノも弾ける等々木琴の手ほどきを受けているときには一切していませんから、本当にサーカスの熊だったのです。もしも「ヤ」ウニャラ音楽教室みたいな所に通ってちゃんとした音楽教育を受けていたらどうなっていたのかな、と想像してみることもあります。現在の私の音楽的な魅力は全然無いのかな、とも思いまし、もっと凄くなっているのかな、とも思います。ただ私が音楽をやっていないときに出会えた人達や、遭遇した事々には無縁だっただろうから、それを引き替えにとまでは思いません。今時の音楽を志す人を見ていると、有名になってお金持ちになることだけで音楽やっている人が大多数になって、実にさもしい浅ましい限りです。人間として失う物の大きさに気が付くためには、子どもの時からシステマチックな音楽の訓練をうけていると難しいのかもな、とも思っています。人間の容量はそれほど大きくは無いのだから、何かを詰め込むと何かを失うでしょうから。まあ、私は長じて(かなり長じて)システマチックな音楽の訓練をしましたが、子どもの時に言葉を覚えるように自然にやってきたのと、無理に「お勉強」したのとでは格段の差があったのは確かです。結構大変な訓練で辛かったのは辛かったです。でもそれをカバーしてあまりある「宝物」は手に入れました。
 という事から、違う環境で育っていて、それでもビートルズと出会っていたら、違う感じ方をしていたのかな?と言う疑問も湧いてきます。現在は少なくなって来ましたが、私と同年代以上の人で音楽というのは「クラシック」と言う人が有る程度います。私より若い人達は少数派だと思います。でも、ビートルズ以降の社会は、テレビでの映像、レコードでの忠実な再現性、が「大衆音楽」も「クラシック」音楽も両方を聴く人を増やしてきたと思います。一番の変化は、譜面が無くてもレコード通りに真似して演奏して、ファッションまで真似できると言うことでした。ビートルズはそう言う社会とも連動していたので怪物になったのだと思います。それ以降の音楽家はそう言う社会性を無視しては活動できなくなりました。(現在は又少し違う風になっていますが)そして、「流行物」も伝統的な物も「市場原理」にさらされていきます。自然に「売れる」からあらゆる手を使って「売る」という「仕掛け」で音楽が制作されるようになっていきます。そんな流れの中で、頑なに「クラシック」音楽だけを信奉していけるものなのでしょうか?私は丁度境目なので、何とも言えない気がしますが、少なくてもビートルズに「シビレ」させられた環境で良かったな、とは思っています。それが何かしら「市場原理」に踊らされた結果としても、です。ビートルズに対する「否定的な認識」を越えて「感動」してしまった、という事で人間が何かから解放される経験が出来たからです。おかげで最初から「色眼鏡」で物事を見る事はせずに生きてこられました。しかし、何でも差別しないで受け入れる代わりに、自分の中での善し悪しの基準は厳格にするように心がけてきましたので、「駄目」と思ったものに対する批判は徹底的にすると言う嫌な性格になってしまいました。

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