音楽って何だろう その6 感動の構造
  人間には、適正に判断して生活していける、距離というか、空間があります。猿の一種である人間にとって、それはそんなに大きなものでは無いはずです。それを超えた距離とか空間の事は、かなり嘘くさい、怪しげな、胡散臭い物であるのは、今も昔も変わらないのです。それを、ちゃんと解って距離とか空間を超えるのと、解らないで超えるのとでは、天国と地獄の差です。前回の話の続きとしては、そこの所をちゃんと判断していないと、「ならず者」や「悪の権化」からとんでもない目に遭わされるぞ、と忠告しました。時代劇とかアクション物に出てくる、いかにも悪者なんていうのは、実生活にそれほど居るわけではなく、ああ、あの人は人当たりが良くて感じが良いな、なんて思われて居る人に限って疑って懸かったほうが良いということです。彼らは、適正に判断して生活していける、距離というか、空間をちゃんと理解出来ていないくせに、それを蔑ろにしているからです。ったくロクナモンじゃない。大体「人当たり」に神経を配っている、てえことは中身が手薄だ、っうことでしょう。
 さて、感動の問題は、この辺の生活に於ける距離感、空間性、もう一つ、自分だけの記憶や予想という時間性が関係していると思われます。
 生活の場面―食べて、寝て、子供を育てて、仕事してetc.エトセトラetc.と言う事と、かけ離れた物、例えば
1、サーカスの類―オリンピックの体操とか、フィギュアスケート、等々、
2、格闘の類―武道、格闘技、敵味方に分かれるスポーツ、ある意味では博打
3、競争の類―陸上、水上、雪上、氷上スポーツ、競馬、競輪、競艇の類
 などは、勿論たまに、涙の出る感動を呼びますが、それはある限られた特定の状況の時で、一般的には、むしろ、驚きの(すごいなあ、その逆のナーアンダ)感動と言って良いと思います。
 音楽では特に1、(3,も関係するかな)に関連した勘違いが横行しています。楽器の演奏の訓練を相当受けた人でも、その人の運動能力、練習の時間の使い方、その効率的配分、などの条件によって技術的な差が歴然と出てしまいます。そして、訓練の過程では、技術力に価値が有るかのような評価を受けてしまいます。よくある情景では、「〜〜ちゃんピアノお上手ね!ホホホ」の類です。サーカスの熊に角砂糖あげるのと同じですね。
 この段階では、上手にピアノを演奏出来るのが素晴らしい事なのです。でも、ズーットこの事だけで音楽をやってきたら、恐ろしいでしょう。とにかく、上手に演奏できれば誰か誉めてくれる=それで人生やっていける。最高のお褒めを受けるのは、音楽のコンクールですから、こぞってコンクールにエントリーします。そして、興行屋さんもコンクールで入賞した演奏家(しかも顔が良ければ)に、自分の感性など関係なく擦り寄って来ます。興行なんて物は元々博打みたいな物ですから魑魅魍魎の世界です。誉められる(ここでは金も絡みますが)為なら喜々としてそんな世界に飛び込んで自分を見失う演奏家がどれ程いたでしょう。ちやほやされている時と、そうじゃない時は、それこそ天国と地獄ですから、それだけが動機で音楽を職業にする世界に飛び込んだ演奏家は、売れなくなった時に味わう、まるで全人格を否定されているかの様な仕打ちに耐えきれず、ボロボロに成ってしまう人が沢山居ました。でも、相変わらずこの悪循環は続いています。それもこれも、涙が出る程感動する事と、生活の場面とかけ離れた驚きの「感動」を取り違えた結果が招いていると思います。
 すなわち、生活に於ける距離感、空間性、自分だけの記憶や予想という時間性を把握しないことの結果です。実際サーカスの様な演奏を聴いて感じられる「感動」は、やっぱりサーカスそのものを見たときの感動と同じ物です。これは、人間を興奮させて、それが楽しいと感じると言う意味で、否定はしませんが、根本のところで、サーカス的発想が原動力になっている音楽なり演奏家は常に限界と挫折と背中合わせで生きて行くだけです。これは辛いはずです。普通生活していて、そんな脅迫観念で生きていたら、おかしくなっちゃいますよね。曲芸演奏するために毎日毎日練習して、それでも「老い」にはうち勝てなくなります。そんな音楽家はスポーツ選手の様に引退でもするしか無いのでしょうかね。寂しいですね。
 ということは、いつも等身大の自分と音楽を比較出来る感受性なり、考え方を身につけておかないと、悲惨な事に成ると言うことです。これも、音楽に限った話では無いでしょう。等身大の自分と何かを、ちゃんと計る事でその人の行動なり生き方なりの整合性が取れる訳です。
 そして感動という心の状態はこの整合性に深く関わっていると思います。
 最初にも言いましたが、技術の事では駄目でも、何かを伝えたいと強く思って懸命に表現している様を見て人は感動します。これは、送り手も受け手も等身大の自分を見ている為だと思います。こういう時不思議と頭の中に何も無くなっている、頭の中が空っぽだ、と感じたことが有るでしょう。言い換えれば、その時の状況を思い起こしてみて、何か考えながら感動していたということは少ないと思います。この事は取りも直さず、あるがままの自分がそこに居たと言うことです。それこそ見栄も外聞も無い状態です。恐らく送り手も受け手もこの心の状態の時の感動は、何とも清々しいものですよね。2、3日はこの感動で良い気持ちで生きていけますでしょう。

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