アメリカツアー面白話 15
Little TokyoのJapanese American National Museumでの常設展示「アメリカにおける日本人移民の歴史」から
第二次世界大戦(太平洋戦争)での日系人強制収容所の解説
戦後の評価
非難と自己批判 大戦開始当時より自国を「自由で平等な民主主義国」、「民主主義の橋頭堡」と自賛してきたアメリカにおける、この様な長期に渡るしかも無差別の強制収容政策は、日系アメリカ人と同じく「敵性外国人」であるはずのイタリア系およびドイツ系アメリカ人などの白人種諸集団に対しては行われなかったため、「黄色人種である日系アメリカ人に対するあからさまな人種差別政策」であったとして、戦後、特に公民権運動が活発になり、人種問題についての公的な発言が自由に行われるようになった1960年代以降、加害人種である白人を含む多くの政治家や人権活動家、歴史家や法曹関係者から非難された。また、当初は強制収容政策の実施を積極的に支持したものの、その後前言を翻し批判する側に回ったフランシス・ビドル司法長官は、戦後発刊された自書の中で自己批判を行っている。
タブー視 この様な強制収容に対する自己批判が行われた一方で、それでも「自由民主主義のシンボル」を自負する多くのアメリカ人にとっては、アメリカ軍による枢軸国の捕虜に対する虐待やアメリカ軍が侵攻した各地における従軍慰安婦問題、原子爆弾の投下による広島・長崎の非戦闘民の大量殺傷と共に、第二次世界大戦の勝利の歴史の陰に存在する大きな汚点、触れられたくない部分であることから、現在に至っても、日系アメリカ人などの一部の少数民族コミュニティーを除くアメリカ社会では、語ろうとする事さえタブー視される事も珍しくない。
そうなんですね!アメリカはプロテスタントの正義感(居直ったり陰でこそこそ卑劣なことをしない)がある反面どうしても人種的な感情が、、、、、、
政府による謝罪 1960年代以降に広まった自己批判の動きを受けて、第二次世界大戦の終結後40年以上経った1988年にロナルド・レーガン大統領は、「市民の自由法」(日系アメリカ人補償法)に署名。「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」 として、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し、1人当たり20,000ドルの損害賠償を行った。また、日系アメリカ人や日本人に対する強制収容についての教育を学校で行うために、総額12億5,000万ドルの教育基金が設立された。かつて収容を支持していたアール・ウォーレンカリフォルニア検事総長も、後に自伝の中で、「誤っており(wrong)」「深く後悔している(deeply regretted)」と述べその過ちを認めている。
第442連隊についての続き 1960年代のアメリカにおける人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになる。442連隊戦闘団は1946年にいったん解体されたが、1947年には予備役部隊として第442連隊が再編制され、ベトナム戦争が起こると、1968年には不足した州兵を補うために州兵団に編入された。現在、第442連隊は解体されているが、連隊隷下部隊のうち第100歩兵大隊が予備役部隊として残っている。部隊は、本部をハワイのフォートシャフターに置き、基地をハワイ、アメリカ領サモア、サイパン、グアムなどに置いている。なお、レーガン大統領が、強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げた同団に対して、「諸君はファシズムと人種差別という二つの敵と闘い、その両方に勝利した」と特に言及し讃えている。
という事で単なる展示物なのに、私は長編の記録映画を見た後の疲労感と「現実」という残酷さに打ちのめされて、止めどもなく涙が流れてしばらく展示場の外のベンチに座り続けていたのです。ここで長いこと解説してきたのも、その感じを分かっていただくために、あえて詳細な解説を載せてきました。こういう苦労(こんな言葉で片づけられないです!)をしてきても逞しく生きている日系人に対する敬意が涙の原因なのかもしれません。その反面日本の「靖国神社」の精神と、アメリカの「Japanese American National Museum」の精神のあまりにも違うことに寒気を覚えました。人間は間違うものですが、間違った後は、速やかにちゃんと謝って反省してそれに伴う行動を起こさないと!アメリカ社会はこういう展示をしています!