アメリカツアー面白話 14

 Little TokyoのJapanese American National Museumでの常設展示は「アメリカにおける日本人移民の歴史」ですが、ついでに見たそちらの方に引きつけられるほど衝撃を受けました。見終わってしばらく涙が止まらず(見ている途中からも涙は出始めていましたが)ミュージアムのベンチに座って動けませんでした。
 展示では日系の移民の始まりから今日までの歴史を写真や文章のパネルや模型・衣類などを使って説明しています。移民の初期は大雑把な説明だとこうなります。
・移民の始まり
 ハワイ(まだアメリカではなかった)への移民は明治時代初頭からみられ、ハワイが米国に併合され、また、カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、日系移民の米本国への移転が増加する。祖国では困窮しきっていた彼らは新天地での仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いたためある程度の成功を掴む者もあらわれた。展示ではあばら家の模型や移民船の写真(詰め込まれるだけ詰め込まれている)で見られた。
・黄禍論の説明
  19世紀半ばカリフォルニア州で金鉱が発見されゴールドラッシュに沸きかえっていて西部開拓が推し進められ、大陸横断鉄道の敷設が進められた。清朝が崩壊しつつあった多くの中国人が金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として受け入れられた。一方カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、日系移民の米本国への移転が増加する。中国人も日本人も祖国では困窮しきっていたので辛い仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いた。そのためイタリア系やアイルランド系(いずれも熱心なカトリック教徒)などの白人社会では、下層を占めていた人々の雇用を奪うようになる。それが社会問題化し、黄禍論が唱えられるようになった。(このときの新聞の記事に中国人だか日本人だか分らない格好をした出っ歯で細い目がつり上がった丸い眼鏡をかけた東洋人が星条旗を食いちぎっている漫画が添えられていた。この手の東洋人の漫画は白人のアメリカのメディアでしばらくはよく登場することになる。)それでも、日本人はアジア諸民族の中で唯一、連邦移民・帰化法による移民全面停止を蒙らなかった民族であった。これは日本が同地域で当時唯一、欧米諸国と対等の外交関係を構築しうる先進国であり、アメリカ連邦政府もそういった日本の体面維持に協力的であったことによる。しかし連邦政府はその管掌である移民・帰化のコントロールは可能でも、州以下レベルで行われる諸規制に対しては限定的な影響力しか行使できなかった。ということで末端に行けば政府の方針とはかけ離れた「黄禍論」という差別に見舞われていた。顕著な例として1906年サンフランシスコ市の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じたのである。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。

第二次世界大戦(太平洋戦争)での日系人強制収容所の解説

1941年12月の真珠湾攻撃で始まったアメリカとの戦争ですべての日系人は収容所に入れられた。大統領行政令9066号が発令された後の1942年2月下旬から、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民12万313人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられ、地元警察とFBI、そしてアメリカ陸軍による強制執行により住み慣れた家を追い立てられ、戦時転住局によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所」と呼ばれる全米11か所に設けられた強制収容所に順次入れられることになった。アメリカ国内における全ての強制収容所は人里離れた内陸部、その多くは砂漠地帯に設けられていた。しかも、逃亡者を防ぐために有刺鉄線のフェンスで外部と完全に隔てられている上、警備員の銃口は常に収容所内部に向けられていた。

施設 強制収容所内には、急ごしらえの粗末な住居や各種工場や農場、病院、商店、学校、教会、劇場などが作られており、これらの施設で働くものには給与が与えられた。また、強制収容所内における移動は自由に行われたが、一部の許可されたもの以外は強制収容所内の病院で治療することのできない病気や怪我にならない限り自由に外部に出ることはできなかった。

住居 強制収容者の住居に宛がわれた建物は急ごしらえの木造の「バラック」というべき粗末なもので、家具も粗末なものしか与えられず、トイレの多くは仕切りすらなかったなど衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。

食事 電気や水道こそ外部から供給されていたものの、戦時中ということもあり、食料などは基本的には自給自足でまかなう事が求められており、強制収容所内における食生活(全ての食事は食堂で行われた)の多くは強制収容所内の農場で獲れた作物があてがわれていた。

リクリエーション 強制収容者へのリクリエーションとして相撲やバスケットボールなどのスポーツが行われた他、「アメリカ化」への思想教育の一環としてボーイスカウトが組織された。ボーイスカウトの団員は、当然のことながらアメリカ国家に対する忠誠を宣誓し、常にアメリカ国旗を掲げているにもかかわらず、「普通のアメリカ人」として扱われず、逃亡防止のために銃を向けられた強制収容所から出ることができないという異常な状況下での活動を強いられていた。

情報伝達手段 強制収容所内ではラジオの所持は許可されたものの、戦前よりロサンゼルスなどの日系人が多く住む地で発行されていた「羅府新報」などの日本語新聞の発行は許されず、わずかに強制収容所内の情報のみが英語で書かれ、収容所の管理者に事前に検閲を受けた情報誌の発行が許されただけであった。

忠誠登録 強制収容所内では、日本国籍を保持する日本人移民のみならず、アメリカ国籍を持つアメリカ国民である日系アメリカ人収容者に対しても数度に渡りアメリカ政府に対する忠誠心の調査が行われ、その結果は登録された。特に、1943年1月に陸軍内に強制収容所の収容者を中心とした日系アメリカ人部隊を編成するために、18歳以上の日系アメリカ人男性に対して強制収容所内で行われた「出所許可申請書」における日本政府とその元首である天皇に対する不忠誠と、アメリカ政府と軍に対する忠誠を問う質問とその答えは、日本生まれで日本国籍を持つ「1世」と、アメリカ生まれでアメリカ国籍を持つ「2世」の間における断絶をはっきりしたものにし、その後の強制収容所における闘争を加速させることになった。

暴動 僻地にある粗末な強制収容所に収容され、行動や表現の自由だけでなく、仕事も社会的地位も奪われた日系人の不満は鬱積し、強制収容所内ではハンガーストライキや暴動が多発した上、盗難や殺人などの犯罪も数多く起きた。また、強制収容所での生活に嫌気がさし、脱出しようとし射殺されてしまった者もいた。

財産放棄 着の身着のままで収容される日系アメリカ人上記のように、準備期間すら満足に与えられなかった上、わずかな手荷物だけしか手にすることを許されず、着の身着のままで強制収容所に収容された日系アメリカ人及び日本人移民は、強制収容時に家や会社、土地や車などの資産を安値で買い叩かれただけではなく、中にはそのまま放棄せざるを得なかった者も沢山いた。しかもその後長年に渡り強制収用時に手放した財産や社会的地位に対する何の補償も得られず、その結果全ての財産をこの強制収容によって失ってしまった人もいた。なお、大統領行政令9066号の発令に伴うこの様な措置に対してフランシス・ビドル司法長官は「西海岸の反日感情に迎合し日系人の所有する農地を手に入れようとする利益誘導が絡んでいる」と強く批判している。

財産保全 強制収用の開始に際しアメリカ政府は、「申し出があった場合に限り、収容される日系アメリカ人及び日本人移民の財産の保全を政府管理の下で行う」旨の通告を行ったが、申し出を行う時間的余裕さえ十分に与えられていなかった上に、強制収用という差別的かつ過酷な仕打ちを行うアメリカ政府を信用して財産保全の申し出を行うものは殆どいなかった。申し出た場合でもそれらは実際には記録されず、保全の申し出自体が否定されるケースも相次いだ。また、政府に対する財産保全の申し出を行わなかったものの、日系人以外の知人に、強制収容所に収容されている間に資産を管理、保全してもらうことに成功した者もいたが、当時の反日的な風潮から、その様なことに成功したのはほんのわずかであった。

市民権剥奪 また、強制収用に伴いアメリカの市民権を剥奪された日系アメリカ人の市民権は、1945年8月に日本との間の戦闘状態が終結したにもかかわらず、サンフランシスコ講和条約が締結され、アメリカを始めとする連合国による日本占領が終了した翌年の1952年6月に行われた、マッカラン・ウォルター移民帰化法の施行まで回復されなかった。

第442連隊について 1943年2月には、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められた。部隊名は第442連隊 であるが、歩兵連隊である第442連隊を中核に砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなった。ハワイからは 2,600人、アメリカ本土の強制収容所からは800人の日系志願兵が入隊した。日系人部隊は当初、白人部隊の「弾除け」にされるのでは、という軍上層部の危惧により戦闘には投入されなかったが、1944年9月に部隊はフランスへ移動し、第36師団に編入された。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘を行う。10月15日以降、ブリュイエールの 街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた。なお戦後のブリュイエールでは、部隊の活躍を 記念して通りに「第442連隊通り」という名称がつけられ、ブリュイエールでは1994年10月15日には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊 テキサス州兵により編制されていたため)がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。第442連隊戦闘団にフランクリン・ルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り10月30日、 ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の約800名が死傷している。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に 数えられるようになった。欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、歴史に名前を残 すことになった。特にその負傷者の多さから、名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)とまで呼ばれた。戦闘団は総計で18,000近くの勲章や賞を受けている。日系人部隊の輝かしい活躍と目覚しい勲功とは裏腹に、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく偏見は変わることがなかった。部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちを待っていたのは「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といったアメリカ人たちの冷たい言葉であり、激しい偏見によって復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれた。このような反日系人的な世論が変化するのは1960年代を待たなければならなかった。
 この話が私には一番心を打つものであったし涙が自然にあふれました。

閉鎖される強制収容所 1945年8月15日に日本がアメリカを含む連合国に対して降伏し、翌月の9月2日に連合国への降伏文書に署名したことで、日本とアメリカの間の戦闘状態が終結した。これに伴い日系アメリカ人及び日本人移民に対する強制収容の必要性がなくなったことにより、全ての強制収容所はこの年の10月から11月にかけて次々と閉鎖され、すべての強制収容者は着のみ着のままで元々住んでいた家に戻るように命令された。しかし仕事や家、その他の財産のほとんどを放棄させられ長年に渡って強制収容された日系アメリカ人及び日本人移民が、元通りの社会的立場に社会復帰することは容易ではなかった。その後も日系アメリカ人は、1952年6月に行われたマッカラン・ウォルター移民帰化法の施行までの長きの間、母国であるアメリカの市民権さえも剥奪された。その上に、日本との戦争によって今までにも増して酷い人種差別にさらされることとなった日系アメリカ人及び日本人移民の多くは、その後長い間「二級市民」としての立場に耐え忍ぶことを余儀なくされ、その結果多くの日本人移民が生まれ故郷の日本に戻ることとなった。


 

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