アメリカツアー面白話 13

 夕方の4時にL.A.の空港に着くと今から30年ほど前に世界中で支持を得たジャズヒュージョンバンド「HIROSHIMA」で和太鼓とパーカッションを担当していたJohnny Mori(ジョニー森?)さんがわざわざお迎えに来てくださいました。ジョニーさんは今やどう見ても小太りのどこかの会社の経営者みたいな感じです。一世を風靡したバンドのメンバーの面影は殆どありません。何処から見ても日本人ですしいつもにこにこして良い感じです。ただ殆ど日本語は日常では使っていないらしくて何処まで分かっている疑問です。こういうときが一番危なくて、滅多なことを口走ると実はジョニーさんは理解していた、なんてことも有るので要注意!案の定空港からLittle Tokyoに向かう途中で「HAMADA san arega HOLLYWOOD desu」などと話しかけて来るではないですか。危ない危ない。
 さてL.A.では14日から21日の帰国まで長期滞在はLittle TokyoのMIYAKO Hotelです。最後のアメリカでゆったり出来そうです。それにしても空気がからからだ。
 Little TokyoのMIYAKO Hotelにチェックインして、直ぐ向かいの居酒屋に繰り出しました。日本食は何でも有りそうだし、従業員も「純正」な日本人です。しかも「〜〜〜でヨロシカッタでしょうか?」「おかわりはダイジョウブですか」などと聞きたくもない「神経逆撫で言葉」をL.A.でも聞かされて、思わず食べる前から胸焼けしそうです。そのうちこちらに住んでいるであろう「純正」な日本人の若い男の客がお金が無いのか「ラーメン半分だけ下さい」と店に入ってきました。「そんな状態で何でお前はアメリカに居る必要があるんだ!」と思わず胸ぐらをつかんで問い詰めたくなります。この20年くらい前からの傾向として、日本でやっていけない若い子たちが海外に「留学」という名目で逃げる傾向が有るのですが、日本でやっていけない子が外国でやっていけるはず無いわけで、豊かになったと言われた頃の日本の親たちの後遺症が未だ続いているようです。要するに物事がうまくいかないのはこちらの所為ではなく周りの所為だ、という考え方が根底にあって、それはそれでいいのですが、じゃあ周りを良くなるように働きかけ変えていくのか、そこから逃げ出すのか、というところで大きな違いが出てきます。豊かになった親たちは財力があるので手っ取り早く逃げる方法を取ってしまいがちで、それがますます周りを悪化させるという悪循環を生みます。しかも、この若い男の様に外国に逃げても現地の社会に溶け込めなくて結局はLittle Tokyoの様な日本語だけで生きていける場所にいて、英語も上達しないのじゃ本当に何のためにアメリカに居るのか?そしてこの手の日本人の若い子が結構目につくので嫌な気分になります。これは私からの提案ですが、日本で活きづらいからといって外国に逃げるのは止めませんか。まあもっとも明治時代初頭からハワイに移住し始めた日本人が徐々に本土の西海岸にも移住を始めるようになって、その日本人の傾向として「移民した日系人たちは勤勉で粘り強く仕事をこなし、ある程度の成功を掴む者もあらわれた。しかし彼らは一般的に“日系人だけで閉鎖的コミュニティーを形成し地域に溶け込まない”“稼いだ金は日本の家族に送金してしまう”などとアメリカ人からは見られていて、現実にアメリカ市民権の取得には熱心ではない人が多く、合衆国への忠誠を誓わないなどの傾向が見られたために排斥された。」という記述があるように、日本人だけで閉鎖的な社会を作りたがるのは昔からあったようです。実際アジア系の中国人や日本人に対して「黄禍論」などという差別が生まれています。しかし、その反面今日までアメリカ人としてアメリカに根を生やして溶け込んで生きてきた移民の方たちも沢山います。第二次世界大戦があったためにその苦しみは並大抵のもものではありませんでした。
 Little TokyoにはJapanese American National Museumという大きな施設があり、特別な展示と常設の展示があります。常設の展示はそれこそ「アメリカにおける日本人移民の歴史」が展示されています。先ほど書いたことが年代を追って多くの写真とそれに伴う解説の文章で展示されています。そこに行った当初の目的は特別展示の方で「アメリカにおける和太鼓普及の歴史」でケニーさんも取り上げられている、というのでそちらを中心に見に行ったのですが、ついでに見ておこうと思った常設展示にすっかり引きつけられてしまいました。衝撃でした。

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