アメリカツアー面白話 10

 Maine州のBrunswickの次に訪れるのは地図的には真横に西に行けば着いてしまうNew York州のSaratoga Springsと言うところです。ここで気を付けないといけないのはNew YorkとNew York州では全然違うと言うことです。勿論New YorkはNew York州の南外れに有りますが、その北側にカナダまで広がっているのがNew York州なのです。どちらかというと素朴な自然豊かな田舎の州と言う感じです。11月6日にこの町に入ったのですが辺り一面見事な見事な紅葉の世界です。日本では山が紅葉すると言うイメージですが町中辺り一面至る所が紅葉です。そしてそれが綺麗のなんのって、この時期天気が良い日が続くとのことで青空とのコントラストは何とも言えません。改めてアメリカ人は自然と上手に共生しているなと思いました。
 そして更に良いなあと思ったのはコンサート会場のSkidmore Collegeは人文系単科大学(学部と学科を増やしているので単科大学のイメージとは遠いのですが)ですが自然豊かな、まるで別荘地の様なところにあります。この大学は人文系でも芸術系が充実しているようですが、人里離れた所にあってしかも立派なコンサートホール(Filene Recital Hall)があって、そこに町の人たちが聞きに来ると言う環境は理想的です。勿論次代の最先端を体現する大都会に有る芸術系大学も必要ですが、芸術は浮世離れしてないとだめだ、という側面もあります。その意味ではこの大学は理想的な立地条件です。町まで車で15分程度ですが、町から大学に行くまでに徐々に徐々に自然豊かな環境になっていきます。その間に緩衝地帯のような住宅地があってその住宅の立派なこと。自然と共生しているのにそれぞれがよく見ると立派で金はかかっているのです。とは言ってもビバリーヒルズの金にものを言わせたような立派さでは無く、自然との共生という環境を作っていると言うのに感動します。思わず写真をパチパチ撮ってしまいました。今にして思えば、東洋人の変なのがうろうろして写真を撮りまくって、なんて思われていたのかもしれません。
 コンサート終了後の宿泊施設にも感動でした。大学の施設なのですが、全て木造で出来ていて、ベッドや家具調度のたぐいも全て時代物で揃っているのです。まさに西部劇や戦前のアメリカ映画に出てくる家具調度そのままなのです。逆に現代でこのような古い屋敷が映画に出てくるのは殆どの場合恐怖映画です。床もぎしぎし言うし部屋の扉も自然に閉まったりして、単純でゲスな私たちは直ぐにそちらの方に発想がいってしまって、しばらくは大人げなく「お化け」話で盛り上がりました。おかげで他の宿泊客に「もう少し静かに」と言われてしまう始末です。屋敷に住み付く霊のせいか早朝に目が覚めてしまって、辺りを散歩しましたがやはり都会的な田舎というか田舎的都会というか、いかにも「欧米」的な素敵な町並みでした。
 次の日はNew York州の州都Albany(New York Cityじゃないのが面白いです)の近くの町Schenectadyという町のUnion Collegeでのコンサートです。Saratoga Springsからは50km程度の移動なので非常に楽な日程です。景色も空気感も私の生まれ故郷の北海道的で久しぶり非常に和やかな癒される気持ちでいられました。人って結局生まれ育ったある時期の「刷り込み」が非常に重要なのだと思いました。好きな環境だと外国に居ても落ち着けるのですから。
 Schenectadyという町のUnion Collegeの多目的ホール(多目的ドームと言った方が正確)は素晴らしいものでした。Nott Memorial Hallというドーム型の円形の建物ですが、国からの補助金で運営されているくらい重要な建物のようです。円形の4〜5階建てくらいの高さの吹き抜けになったドームで、各階の壁は展示するギャラリーとしてちょうど良い作りになっていて、最上階から丸く歩いて展示物を見ながら降りてくる方式になっています。そして一階は何も置いてなくていつでもパーティーやコンサートが出来るようになっています。もちろん教会のような吹き抜けのドームですから音の響きは素晴らしく前回の大学といい今回の大学といい「ウラヤマシイ!!」と思ってしまいました。そして何より面白かったのは、そのときの2階以上のギャラリーでの展示は、なんと中国の「文化大革命」(私が高校生のときに始まった中国の「狂気の大衆化」とでもいうべき現象です。何人もの善良な人が「紅衛兵」という集団に迫害を受けたり虐殺されたりしました。)のポスターや、記事や色々な資料が展示されていました。おそらく40年たった記念ということだったのだと思います。音響チェックとリハーサルの空き時間にぐるっと見ましたが、懐かしいのと人類の愚かしさに改めて思い巡らされました。昔から皇帝ネロ、秦の始皇帝、チンギスハーンなどの独裁者による虐待、虐殺はあったものの、20世紀に特徴的なのは大量虐殺が大衆のある種のヒステリーに支えられている、ということです。スターリンの粛清、ヒットラーのホロコースト、毛沢東の「文化大革命」、ポルポト派の知識人大量虐殺等々は1次的には独裁者の狂気が発端であるにしても、表面的には民主的だったり大衆の圧倒的な支持があったりで、それに反対したり間違いを指摘するほうがその体制の中では少数派だったりするわけです。この「狂気」は日本も潜り抜けてきています。昭和の軍国主義の歴史は国会の民主的な手続きを踏んでいるように見えて、実はテロと「特高」の恐怖警察に支えられたインチキな手続きなのに大衆は「狂気」を選択してついには共同体の崩壊まで行ってしまった、などとつらつら考えさせられました。おっと、アメリカだって大衆のヒステリーから起こした事柄は沢山あります。案外今だって相当ヤバイですよね。だから歴史的に何処の「国」も美しい国家などありません!
 さてさて、この町はもうひとつ興味深い有様を見せてくれました。町に入ったとき、昔栄えていて、今は寂れているのかな、という印象が直感的に浮かびました。感じの良い商店街があるのに店が開いていなかったり、本当は人々でにぎわっているのがふさわしい町並みに人が居なかったり、車の通行量から考えて道が立派すぎたり、明らかに寂れ始めている感じです。まるで日本の「格差」問題がアメリカに移ってきたようです。さすがに英語でそんな込み入ったことは質問できないので、アメリカ人の仲間に色々聞いてもらったら、やはり思ったとおりで「GE」General Electric社(アメリカの松下電器のような大きな電気関係企業)の工場がこの町に有って大層栄えた町だったのに何年か前撤退してしまってこういう状態になった、ということでした。日本でもそうですが、大きな企業が町を発展させ多くの人が幸せな時間を過ごすときは最高ですが、このようなことがあると人々も町も良いときの何倍もの痛手をこうむるようです。
 そんな寂れた町でも「ケセラセラ」的なおばさんが居て気持ちを明るくしてくれます。ちょっとした出来事です。
 コンサートの次の日がオフだったので(相変わらずケニーさんは和太鼓のクリニックをしていますが)日本人2人と日本人と白人のハーフのアメリカ人とで遅いランチを食べられるレストランをうろうろ探していたら、適度なアメリカに良くあるレストランが見つかって入りました。相変わらず面倒な注文はアメリカ人の仲間に頼んで、オフなのでビールを飲みながら3人は日本語で冗談を言いながら食事を待っていました。オフという気楽さと昼間のビールの所為で誰かが何か一言言うと直ぐに3人で笑うという感じでした。ちょっと周りに迷惑ではありましたが、案外アメリカのレストランでは愉快に騒々しいのは大目に見てくれるので久々の開放感に楽しく浸っていました。私たちのテーブル担当のウェイトレスは典型的な映画に良く出てくる様な小太りで気さくな中年女で、テーブルにくるたびに何か一言うち解けた事を言ってはにっこりして去っていくという調子でしたが、そのうちテーブルにくるたびに私たちの会話に興味をもっているように話しかけてくる量が増えてきました。どうやらこいつらは英語が分かるのに、3人では訳の分からない言語で会話していて、しかも大笑いしているから怪しいぞ、と思ったようです。ハーフの彼が言うには「あのおばさんは自分の事を笑っているのかもしれないと思って警戒しているのかもしれない」とのことですが、それならばとなるべくおばさんを見ないようにして楽しい馬鹿話を続けていました。そのうち今度は私をねらってペラペラと質問してきたので「I don’t understand what you say. I’m Just Japanese.」と言うと、「OH ! I’m Just Polish」などとと言って譲りません。どうやら「おまえは日本人なら私はポーランド人だ。そんなの関係ないから、何がそんなに楽しく愉快な話なのか教えろ。(私にもそれをわけてくれ)」と言うことらしいのです。そしておばさんは思わせぶりなウィンクをしたと思ったら大笑いして又行ってしまいました。こちらもつられて大笑いです。こんな笑いのウィルスは後ろの席にも伝染してしまい、なんと若い人たちのグループも楽しそうになってきて、この若者のグループは実はUnion Collegeの学生で、放送部の学生で、昨日のコンサートのことを知っていて、なんて連鎖が始まってしまって、ついには連中のビデオカメラで取材までされて日本人の恥を大いにさらしてきた次第です。あの取材した内容は大学の放送局で放送されたと思うと今でもぞっとしますが、それ以上にポーランド人のおばさんは実は大阪のおばさんとあまり変わらないという思い出が強烈に残っています。とは言っても彼女の先祖が移民として(もしかしたらナチスから逃げてきたのかも)アメリカに渡ってきた頃は大変貧乏で苦労もしただろうし、今でもレストランでウェイトレスをしているくらいだからお金持ちになれたわけでもないし、GEの撤退のおかげで栄えていた町も寂れていく一方だし、恐らくあのおばさんにとって良いことはそんなに無いはずなのに、楽しそうな所には興味を示して自分も楽しくなっちゃえ根性が凄くて、くよくよしている暇があったら大笑いしている方が良い、なんて事は実は素晴らしいことなのだと今でも思い出すのです。最高!

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