アメリカツアー面白話 7

 ホームパーティーで鋭気を養って次の日はUniversity of MarylandのDekelboum Concert Hallでのコンサートです。このホールはClarice Smith Performing Arts Center of Artsの中にあります。アメリカの総合大学にはこのように芸術関係の学部が充実したところが沢山あります。しかもその充実ぶりを証明するかの様な素晴らしいホールです。Greensboroの大学の様に素朴な運営ではなく、音響も照明もちゃんとしたプロ集団(のような学生と先生の集団です)が担当します。授業の一貫としてやっているようなので、音響、照明の先生達もピリピリしています。
 原則として、舞台(ステージ)を運営するとき出演者、音響、照明、舞台進行(舞台監督)、舞台上の道具関係という係がいます。さらに演劇では制作者(音楽でもあります)や演出者(音楽ではオーケストラの指揮者です)がいて、その分業で成り立っています。もっと大がかりなものになると対外的な広報や宣伝を専門に担当する人がいます。その出し物を色々な場所で公演するとなるとさらに旅公演のための運営者が専門にいて、旅の予定を組んで運送して仕込んで終わったら撤収して次の場所に移動して、と言う繰り返しを行います。このように音楽でも演劇でも舞台を運営していくというのは多くの分業で成り立っています。そして円滑に運営するためには、それぞれの役割での知識と経験が必要なのは言うまでもありません。 
 日本でも最近は大学でこのような事を教える学部や学科が増えてきましたが、さすがに何でも学問にしてしまって「ええ!!!こんなものにも学位を与えているの?!?」というアメリカではずいぶん昔から芸術学部の中で「舞台」を学科として扱ってきたようです。日本では舞台と言えば能、狂言、歌舞伎ですが、徒弟や世襲で技術や知識や運営方法が受け継がれてきたので、大学で舞台運営を教える必要が無かったのでしょう。徒弟や世襲で受け継ぐというのはある種限られた人に制限して「たたき込む」という感じですが、学問として扱うというのは、一般に広くその技術や知識を公開すると言うことですから、大きな違いだと思います。
この辺にある種の社会性の違いが出てきていますね。限られた人で技術や知識や情報を共有して一般に公開しない事である種の「権威」を形成している日本(アジア的)の風土と、出来る限り技術や知識や情報を広く一般に公開して、そこから優れた人材を育てたり、多くの人が生活しやすい環境を作ろうとする風土の違いが有ります。日本が何時までも「形骸化された民主主義」から抜け出せないのは、その風土の所為なのだと思います。これは何も大きな社会(国など)だけの問題ではなく、地域社会でも有ることです。住民組織が「仲良しクラブ」になってしまって「情報を広く一般に公開して生活しやすい環境を作ろう」と言う目的が形骸化してしまう傾向に有ると言うことです。やたらに「親睦」や「行事」には力を入れるのに、いざ「情報を広く一般に公開して生活しやすい環境を作ろう」という具体的な日常的な取り組みには腰が引けてしまうと言う傾向がいろんなところで見受けられます。
 University of MarylandのDekelboum Concert Hallでのコンサートに関わった舞台芸術学科の先生や学生達の姿を紹介します。
 このコンサートはもちろん有料ですし、学内向けでは無い一般に公開されるコンサートですから、ちゃんとコンサートして成立しないと駄目なのは大原則で、しかし大学のホールと言うことで、全ての運営を先生と学生が行うと言うことになっているようです。だから先生はピリピリしています。ひたすら動き回って、自ら全ての行程に目を光らせています。そして常に学生達に何かしら指示を出しています。学生達はと言うと、日本でもそうですが、だらだらした印象です。日本に居るときにどうして若者はだらだらした印象を与えるのか不思議に思っていたのですがアメリカの学生も全く同じ印象を受けたので、そうかこれはアメリカ的な若者が増えている所為なのだと思い至りました。そして面白いのは、きびきびしているな、と思えるのは少数の女の子です。それだってほんの一握りです。自分の楽器を組み立てながら、どうしてだらだらしているように見えるのかを観察していると、あることに気がつきました。先生は全体の進行状況を見ながら、その都度指示を出しているので、早く終わった所と未だ作業している所でばらつきが出てきます。そのとき、きびきびした印象の子は作業が終わった旨を先生に言って次の作業の指示を受けて又作業に入りますが、だらだらした印象の子達は作業が終わったら次の指示が先生から来るまでだべったり、ふざけたりしているのです。しかも体がでかいので目に入ってきます。中には大きな声で冗談を言ってげらげらと笑ったりしています。それこそ「目に余る」と言うことなのです。よく「社会は一握りの優良な人たちが動かしている」と言う人がいますが、あながち間違いでは無いでしょう。と言うのも次のPhiladelphia(フィラデルフィア)での公演は普通の劇場に外部の舞台制作会社が入ってのコンサートでしたが、音響、照明、舞台設営の各作業に一人か二人が担当しててきぱきとこなしあっという間に準備が出来ました。この大学では授業の一貫という意味合いがあるにしても、プロ集団の5倍の人数で作業しているのに3倍は時間が掛かっていますから、いかに「少数精鋭」じゃないと商売として成り立たないか分かります。また余談ですがNHKで録音に行きますと、楽器を転がしてくるのに二人がかりで作業していた、と言うような時期がありました。公務員も似たような作業をすることが多いと思います。やはり「商売として成り立たない」方法しか採れないところは「世間」と乖離していると言われても仕方が無いのです。それはプロと学生との対比と同じだからです。
 さてもう一点先生の厳格な態度にも驚かされました。舞台では各部署の仕事に手を出しては絶対行けないのです。椅子一つ欲しいときでも舞台道具に頼むし、マイクの位置がちょっと動いても勝手に直してはいけないのです。そして、最終的には舞台監督の指示に従うのが舞台での序列関係になります。ただし舞台監督は出演者に最大限に良い表現をして貰うために色々気を遣ってくれます。ただし「しきたり」を犯すと怖い存在でもあります。
 準備も滞りなく済んで、いよいよ本番を迎えて舞台袖で待機しているときステージドリンクを持ってくるのを忘れた出演者がいて、たまたま袖に積んであったペットボトルの水に気がついた彼は舞台監督(先生)にもらえないかと尋ねるときっぱりと「No!」と言って「This is stuff only」と冷たく言い放ちました。しかし出番も迫っているので彼は考え直して、後で楽屋に置いてあるペットボトルをここに補充することでその場を切り抜けることをしました。カッコイイと思いました。毅然とした態度で原則を守ろうとして、しかし緊急事態なので瞬時に善後策を考える。素晴らしい「危機管理能力」だと思いました。
 かように舞台での分担の厳格さと、それぞれの作業の独立性と、それに対する「誇り」を感じました。そして、ここからが大事なことですが、「誇り」を持つ事の保証として音響も照明も必ず分からないことは出演者に聞いてくるし、それを恥だとか聞いて甘く見られるかな、とか考えません。なぜならば分からないことをそのままにしたり、知ったかぶりしても後で失敗したら「誇り」も何も壊れてしまいます。そういう意味では自分の「誇り」に磨きを掛けるためにも謙虚に成ることを忘れてはいけないのです。すなわち「誇り」と言うものは謙虚な気持ちに裏打ちされたものだ、と言うことなのです。そして扱った事のない楽器の音の拾い方を謙虚に尋ねてくれるとこちらも円滑にサウンドチェックが出来ます。決して知ったかぶりをしてこちらの不興を買う様なことはありません。ところが最近日本の音響関係の若い人たちはアメリカのスタイルを取り入れようと(ある種の憧れなのでしょう)していて、私から見るとはき違えているような印象を受けます。特に私の様な楽器はあまり接する機会も無いだろうし、恐らく接したことが無いくせに「プライド」だけで乗り切ろうとしてマイクをとんでもない位置にセットしたり、それを指摘されると居直ったりします。最初から謙虚にどういうセッティングが良いのか私に一言聴けば良いのです。それが彼らの「誇り」を最低限保証することになります。ところがそれを勘違いしているわけです。そういうヤツに限って「アーティスト」気取りで鼻持ちならないヤツが多いです。謙虚さに裏打ちされた「誇り」を持った職人は先ずは私に尋ねるし、楽器のそばで音がどこから出ているか、一番いい音が拾える場所を丁寧に探します。そういうことをしていただけると私も出来る限りの協力を惜しまないので、ひいては彼の「誇り」に更に箔がつくことになります。
 この話は音響に限ったことでは無く、似たような現象はあらゆる場面で起こっているような気がします。恐らく長い時間を必要とする技術や勘所が身につく前に一端の人間に見て貰いたい(北海道では良いフリコキと言います)という欲求が強いのでしょう。それは育ち方に問題があったのか、環境が悪いのか。最近一つのことをあきらめずに続けてみる、という事をしない、させない風潮が有るように思います。子どもの可能性を広げると言う美辞麗句のもとに次から次と取っ替え引っ替え「経験」を「消費」する傾向が見られます。それはお湯を掛けて3分の罪だと思います。ゲームも関係有るのかな。とにかくローマは一日では出来ません。

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