調の概念の欠落又は不備 その二
「調の概念の欠落1」で述べたことをもう少し詳しく見ていきます。そのために、もう常識になっている西洋学術音楽の歴史を検証することで調の概念を欠落させることがいかに危なくてインチキ臭いか検証していきます。
まず「音楽学」では常識の範疇に入る言葉の定義をしておきましょう。「音列」「旋法」「音階」の違いを書いておきます。
●音列
定められた一連の音(の並び)。音と音の間に主属の関係は無い。
平均率、純正率の音列 の様に使われる
●旋法
特定の音列からとった主属の関係を持つ一連の音の並び。
長調(ハの旋法)の・の和音に違う旋法を設定する矛盾はここだけでも分かるでしょう。
●音階
音列又は旋法の隣接した音を次々に演奏する旋律的な動き
因みに
「和音」は三つ以上の音を同時に鳴らすこと。
まずこの言葉の定義が分かっていれば当分理解出来る話だと思います。
世界中所謂「民族音楽」しかなかった時代がありましたし、不思議なことに現在まで原始のまま伝承されている「民族音楽」は案外多いのです。ただし、植民地の洗礼を受けた発展途上国における西洋音楽の進入によって変質(融合)させられたものも多いです。その中には面白い音楽を生んでいるのもあれば陳腐な物も多くあります。そして、その国民的楽器であるせいかスペイン・ポルトガルの植民地にはギターが定着しています。簡単な和音を弾くことではこれほど優れた楽器が無いと思われるほどだし、大きさも人間が手軽に扱いやすい大きさのギターは西洋音楽と民族音楽の融合を進めていきました。その結果変質した(融合された)民族音楽では簡単なシステム化された和音(和声)が見られるようになりましたが、そもそも、民族音楽はメロディーとリズムが主な物で、低音部での独立した旋律の存在があるもののシステム化された「和音」として演奏(作曲)されてはいません。メロディーを常に平行5度、平行3度、平行2度で唄う(演奏する)民族音楽はあってもただそれだけだし、所謂「民族音楽」の中でも最も複雑でシステム化されていて発展の度合いとしては相当の高みにあるインド音楽ですら和音のシステム化はなされていません。その実、5音音階での旋律が多い中、インド音楽は7音音階で可能な限りの組み合わせで「旋法」を作り上げ、地方によっては厳格に旋律の作り方も決められています。因みに過去に百科事典に掲載された「カルナティックの72旋法」はインド音楽の旋法の多様さがよく表されています。リズムもその幾何学的なシステム化は他の追随を許さないほどです。余談ですが、1960年代以降の西洋のインド音楽への羨望は、その中身を知れば知るほど高まりました。なぜなら、音楽をシステム化する事で発展させてきた自負をもっている西洋人にとって、全然違う観点のシステム化で発展させてきたインド音楽はある種のショックだったろうし、分析すればするほどその「システム」の美学の虜になっていったのです。それ程のインド音楽でも、和音のシステム化はされませんでした。
そもそも西洋でも和音の概念は無かったのに、どうして西洋だけに出てきたのかは諸説あるにしても、旋律を文字や記号の形で記録できたか、人間対人間が文字や記号を使わずに口承その他で伝承していったか、は大きな差であると考えられます。ついこのあいだまで津軽三味線は目が見えない人が伝承する音楽の意味合いが濃かった様に、多くの民謡・民族音楽は記録する術を持っていないのが主流です。所謂「符丁」と呼ばれる口承の演奏技法が代々伝えられてきたのです。そもそも音楽を文字や記号の形に直して記録すると言う作業は、一度音楽の要素が何なのかを相対化して抽象化する作業が必要な訳で、当然ながら記録された物から新しい試みをするときに非常に便利である、と言うことは想像に難くないと思います。そして聴覚だけが頼りの試行錯誤に比べると、記録された音楽を元にした新しい論理的な試みの方が、手法としての科学性が遙かに違うのは論を待たないと思います。当然その差が後々和音をシステム化すると言う科学性を持った音楽になっていったのは当然と言えます。実際音楽理論自体は、物理学もそうであったように「ギリシャ時代」に相当論理化されています。「ギリシャ時代」は爆発的に色んな論理が向上したという不思議な時代なのです。そしてその後は、政治(戦争・侵略)に翻弄されるかたちで、文明は熟成されると破壊・略奪され、を繰り返すわけです。おかげで融合された文明がいろいろできるにしても、じゃあ西洋音楽が和音の概念を獲得するに至った主に影響を与えた文明は何なのかは未だに確立された論が無いそうです。とにかく、旋法の概念をはっきりと持って作曲と言う作業を確立させてきたのは7〜8世紀にかけてのグレゴリア音楽であることははっきりとしています。その音楽が純粋にギリシャ音楽からのものとは言えず、むしろ東方の影響も大きいので、色んなな融合の末に出来てきた音楽と考えられています。11世紀くらいには、ある旋法に基づいて多声部で作曲されるようになるとそこに出来てくる和音に何かの法則性を見つけだそうと言う動きが出始めます。そして「協和音」「不協和音」という概念も出てきます。13世紀には教科書で有名なポリフォニーが飛躍的に発展して当然現在とは違う「和声」的な動きも盛んに見られるようになり、14世紀で・→・と言う終止形が出てきて明らかに旋律的な要素と和声的な要素を分けて考えるようになります。それは旋律における和声音と非和声音の区別がはっきりとなされ、旋法で作曲されていながら、旋法を外れる変化音も積極的に使われるようになります。15世紀にはハの旋法が長調へ移行していく時期で、バス声部の・→・にさらにソプラノ声部での導音→主音という「解決」も確立されていっそう「調性」という概念に向かっていきます。
16〜17世紀において様々な旋法が長調と短調に集約していき、楽器の発展と記譜法の進歩によって、作曲する手がかりが旋法的な横の要素ではなく、和音という縦の要素で考えられるようになり、そしてさらに、17世紀末に平均率が確立され、旋法的な音程ではなく和声的な音程を獲得して調による不平等がなくなり「調」の概念が確立され「和声学」として理論を確立していくことになります。
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