調の概念の欠落又は不備 その一

 私が「バークリー音楽「大学」専門学校」の「ジャズ理論」のインチキ性で一番力説したいのは、「調」の構造をないがしろにして、怪しげな「スケール」(音階?旋法?)を持ち出してくる所です。後ほどちょっと専門的なつっこんだ証明をしますが、その前に何回も言います。「ゲーリーバートン達の即興演奏時におけるアイデア集」のようなものが勉強会で語られるならまだしも「ジャズ理論」などと言う名前を付けて大学で講義されている事が問題です。大学と言うところは研究機関・教育機関であると同時にインチキな物を排除する責任ももっているはずです。そう言う自浄作用がないと研究者の切磋琢磨が生まれてこないでしょう。
 「ゲーリーバートン達の即興演奏時におけるアイデア集」としての意味しかないことは時代的な背景からも説明が付きます。チャーリーパーカー達から発した「ビー・バップ」なる即興演奏の新しい運動はジャズをある種の「芸術」まで高めたと言われていますが、その後その弊害としてどんな曲を演奏(即興演奏)しても同じようになってしまうということがありました。「テーマは違うけど、アドリブになったらみな同じ」とよく言われました。武満徹さんもその事をジャズの持っている駄目なところとして指摘していました。この事も後で詳しく取り上げますが、音楽を「記号化」していく弊害です。さて時代的背景のもう一つは、アメリカのマーケットの常として、新しい「商品」を開発しないと売れなくなる、という事が有ります。要するにアメリカのレコード業界は常に売れる商品を求めていて、ジャズも有る程度売り上げを見込めるようになってきて、大手のレコード会社がジャズレーベルをどんどん立ち上げる中、ジャズミュージッシャン達は何時も盛んに目新しい音楽を売り込みする、という構図が出来上がって来ます。その流れの中で、ポスト「ビー・バップ」として「モードジャズ」が売れ始めます。折しもフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンが現代における「モード(旋法)」での作曲を盛んにしていた文化的背景も有るのでしょう。その時に「ビー・バップ」じゃない即興演奏の方法として「モードを使った即興演奏」の方法、所謂「ゲーリーバートン達の即興演奏時におけるアイデア集」が出来上がりつつあったのです。そのころは本当にまだ「バークリー音楽専門学校」だった所で色んな人が関わって出来たにしても、ゲーリーバートンが教務主任の様な存在なので彼の発言がこの専門学校の論理的支柱で有ろう事は想像に難くないと思います。さぞや新しいジャズ、新しい音楽を自分達が作り上げていると言う気概(単なる思い上がりですが)が有ったことと思います。そして運良く最終的にはECMレーベルが有る程度支持されて、「チックコリア・ゲーリーバートン」の大ヒットでピークを迎えます。商業的にはブームを作ることが出来たのですが、そしてそれらの演奏の素晴らしさも認めるところですが、その尻馬に乗って(ゲーリーバートン自信が乗っかっているから始末に悪いのですが、、、)登場してきた「ゲーリーバートン達の即興演奏時におけるアイデア集」程度の「ジャズ理論」が困りものでした。そして方や日本の状況は、西洋の方が優れているから追いつけ追い越せの明治以来の伝統精神に則って何ら疑うこともなく、西遊記の三蔵法師のように、遣隋使・遣唐使のように、明治の「洋行帰り」の幻想の様に「ゲーリーバートン達の即興演奏時におけるアイデア集」程度の「ジャズ理論」を有り難い「お経」として持ち帰った連中が少しずつ増え始め、最初は「あっ、そう」程度にいなせば良かったことが「信者」が増え始めて、ここに来て始末に悪いことになってきました。「バークリー詣で」の人達は、殆ど精神はカルト集団です。学んだことを無自覚無批判で取り込むのは「学問」とは言えません。ある理論の綻びを追求して「バグ」を修正していくのが「学問」なのです。それを忘れた「学問」は権威主義、イカサマ主義、儲け主義の手あかに染まってインチキ学問に成り下がります。まあ、未だに有る方面の「学問」は殆どそれですけどね。いや、むしろそっちの方が多いのかな。自己検証をしないで、ある種のヒステリーのように無自覚に取り込んで信じ込む事ほど危険なことは無いと思います。私はこの現象を音楽に置けるカルト症候群と名付けたいと思っています。
 さてさて、調の概念を欠落させることが何かセンセーショナルな「新しい時代の音楽」を意味させるかのような扇動(商業的成功)によって矮小化されていった「ジャズ理論」をここで裸にしていきます。本当はちゃんとした音楽学者がやってくれれば良いのに、彼らも商業的成功の前で沈黙する術を覚えた世代が多くなって気骨が無いので困りものです。
 「ジャズ理論」の初期の段階で先ずナニ!と言う言葉に出くわします。「Dマイナー7のコードはDドーリアンのスケール(?)を設定します」おお!何という「オネンブツ」なのでしょう。この「ナントカアン」を後6っつ「オネンブツ」として覚えなくてはならないそうです。明らかに、「旋法」の概念「調」の概念の欠落、ずさんな認識から来る「オネンブツ」です。そして、「ジャズ理論」の信者達は安易に英語をそのまま使うので、「旋法」「音列」「音階」の概念の区別さえつけずに「スケール」と言う言葉で済ませています。「オネンブツ」だからしょうがないのだけれど、明らかに学問の手続きは踏んでいません。そもそも西洋学術音楽が現在の様な発展をしているのは、ひとえに和声学とそれをベースにしてメロディー(旋律)を作る方法の対位法を編纂して常に検証してきたからです。将にチャントした学問の道筋をたどってきているのです。世界中に現在も昔ながらの形で存在する「民族音楽」と西洋学術音楽が決定的に袂を分かつ事になったのは将にシステム化した和音(和声)と言う概念です。そしてそれから派生して調と言う概念が出てくるまでに又民族音楽との決別の歴史が有ります。その道を経て20世紀の音楽は「旋法」への回帰をして先ほど言ったメシアンのところまで来ています。ジャズは将に西洋学術音楽の歴史ををお手本として、作曲・即興演奏の手法を確立し、現在まできています。じゃあ何がジャズ的なのか、と言うと「リズム」でしかありません。その意味で「ジャズ理論」は無用の長物である、と言っても過言ではないでしょう。むしろ害になるとさえ言えます。それこそ安直に盛んに「旋法」のような「スケール」を出してきますが、和声や調の概念がないまま「お湯をかけて3分」と言う気楽さで使うととんでもない誤解を生みます。理論とは名ばかりの「オネンブツ」になってしまいます。音楽家を養成する、という教育的な側面から見ても根本的な概念の誤りを植え付けてしまうことになります。

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