QUIET TRIANGLE  ライナー・ノーツ

■ 洗練された静けさは、確かに存在する

 よい音楽は、浸透圧が高い。そこに、理屈はない。けれども、その肝心のよい音楽は簡単には耳に入ってこない。そこは、理不尽である。街の喧騒は、どこかひとを追い立てている。まるで、「そこで立ち止まっては困りますよ」と促されているような音。まっとうな人間が、せめて自分のペースで道を踏みしめるには、ヘッドフォンをつけて自分の耳にたっぷりと滋養のある音を注ぎ込んでやることが、いまの世知辛い世の中に許された、せめてものオアシス探しなのかもしれない。幾多の音楽から、自分の音楽プレイヤーに入れる音楽は限られてしまうわけだが、もしもバイト数に余裕があって、本当に心に染みるいい音楽を聴きたいと思う方は、たとえあなたが“のだめなクラシック・ファン”でも、夢破れたジャズ者であっても、最近JEROの節回しは侮れないと思う歌謡曲ファンであっても、このアルバム1枚分の余白を、私に与えてくれないだろうか。

待望のリリース、である。2001年9月にリリースされた「FOX DANCE」以来、クラウド9レーベルが発信する浜田均のアルバム第2弾、正式には今後ユニット化されていくという「QUIET TRIANGLE」のデビュー・アルバムということになる。前作は、鬼才フェビアン・レザ・パネを核としたガネーシャン・トリオという豊穣なる音の大地に、まさに富良野の雪原を跳ね遊ぶキタキツネのように、演奏家として闊達な音の魔方陣を描ききった浜田均の傑作だったが、結論から言えば、アルバムの出来はさらにその上を行くものだ。音楽のキャリアでいえば折り返し地点に到達してから、このような成果を世に問える浜田の才能に嫉妬を覚えるほど、持てる地力と狙う方向性が漫然と合致した彼のマイルストーンと呼べるだろう。

ヴィブラフォン+フルート+アコースティック・ギター。冒頭から私は、バンジー・ジャンプの踏み台に立たされた気分になった。従来こんな組み合わせは聞いたことがない。いったい、何を意味するのか。つたない感覚値で類推させてもらうと、ジャズの視野からの検証であれば、バド・パウエルが作ったトリオ神話からの解放であり、リスナーからすれば耳慣れない新鮮なトリオ・フォーマットとの出会い、録音技師からすれば、割り増し料金の請求・・・ということになるだろうか。どういうことかといえば、モダン・ジャズでトリオが代表的演奏フォーマットになったのは、バド・パウエルというピアニストが右手を開放したことに始まっている。左手でコードを、右手でメロディを。あとは、ベースがリズムラインをキープし、ドラムスがメリハリやアクセントを加えていくことで、役割分担が明確になり、粒立ちがはっきりしたジャズの扇形が完成した。しかしこのユニットには、ベースもドラムスもいない。しかも、近代的なバートン・アプローチ(ゲイリー・バートンが杓子定規的に推進した頭でっかちなコード展開だったりするが、ここでの説明は割愛しよう)などジャズのある種の呪縛を排除していながら、ジャズを諦めたわけでもない。リスナーにとって聴いた前例がないから、想像がつかないのである。また、どの楽器もそれ単品で主役を張れるし、サイドに回っても個性的なサポートができるが、いかんせん圧倒的な音のプレゼンスを主張する楽器群ではない。そして打楽器・管楽器・弦楽器、それぞれが独特の音色と特性を持っているのに、音域だけはしっかり喰い合う。今回、浜田のヴィブラフォンは名手ミルト・ジャクソンのようなリヴァーヴの厚塗りをさけた音のメーキャップで勝負しているからいいものの、エンジニアはこのトリオの録音に当たっては、細心の注意が要求されるセッティングと調整に、さぞかし肝を冷したのではないか。ところが、この作品、最初からヘッドフォンで聴くことを想定されて録音されたのだという。これは、現実的な選択であり、卓見だ。実際、音楽を聴くという特別な時間を常に確保できるほど、現代はゆっくり時は流れてはくれない。現実的には、メディア・プレイヤーでの「ながら聴き」は当たり前になっている。しかし、いかんせん帯域をフラットにぎゅっとファイル圧縮しているわけで、本来の情報の多くの部分が削ぎ落とされていると云われる。それを予め計算された音域の中で、これら楽器が出しうる最大値を引き出し、リスナーに耳をそば立てさせるという逆転のコンセプトで覆してくるの辺りにも、尋常ならざる意匠を感じてしまう。ノイズ・キャンセラー付きのヘッドフォンなら、なおさらいい。試しにヘッドフォンで聴いてみると、その鮮やかな録音に、まるでレコーディング現場に居合わせたような感覚におそわれることだろう。そして、静けさとはけっしてうるさい音との対比上で語られるものではなく、磨かれて洗練された静けさがあることも悟るに違いない。

■ 特別の魔力を秘めた、“静三角形”たち

さて、“ジャンプ台”から敢然と音世界に飛び込んでみると、このトリオをユニット化させたいという浜田の意向に、思わず頷いてしまうほどこのユニットが可能性に満ちていることに驚く。いよいよ極みに来た感のある浜田の作・編曲力、ボーダーレスにしかも楽器の枠を超えた赤木のフルートの開放感、そして新人である古川麦のスター性など、このユニットは個性がしっかり噛み合い、軸がぶれないようにボサノヴァという芯を保ちながら、あらゆる越境を恐れない、厭わない演奏姿勢が貫かれているからだ。傍証は、このアルバムの中にすべて納まっている。

浜田均の作・編曲の粋は、冒頭の「TSURARA」そして「LAGOA」「EVEN IF IN A DREAM」「月と星の物語」など、アルバムの大半を占めるオリジナル曲を聴きながら確信してほしい。彼がいかに完成されたメロディ・メイカーであるかを。画家に見立てれば分かってもらえると思うのだが、今まで自分はヴィブラフォン/マリンバ奏者としての浜田を評価していた。デッサン力の評価だけで、この画家は上手いと思っていたようなものだ。絵の具でカラーをつけて仕上げたら、別の次元の作品になっていた。出来た絵画は、適正な彩りに溢れ、誰もが見入ってしまう魅力があった。なるほどこの人の才能は、曲から俯瞰していかないと本当の姿が見えてこないのだと得心したわけだ。浜田は、色彩の音楽家なのである。驚くことにどれもが珠玉である。ありがちな捨て曲というものがない。強いて言えば「TSURARA」は、前作「FOX DANCE」からの再演である。仮に収録されなくても、アルバムとしては立派に成立したであろう。けれども、この曲ほど、ある意味このユニットのステートメントを体現したものはない。アルバムのダイジェストがあると言い換えてもよい。私は図らずもこれを聴いて落涙した。6年前の前作でこの作品に惚れ込み、「夏はサザンの「TSUNAMI」、冬は「TSURARA」が自分のテーマ曲にする」と周囲に宣言していたくらい、心に棲みついた曲だった。お互いの間で何となく暫し時間が経ってしまったのに、かつて好きだった女性がさらに知見を蓄え、しなやかなで凛とした姿をして目の前に現れて、何事もなかったかのように「元気だった?」と唐突に聞いてくるようなイメージ・・・といえばよいだろうか。仕事で何をやっても上手くいかない時で、心がささくれ立っていたから余計涙腺が弛んだのかもしれない。春を希求する一方で、冬が過ぎれば融解してしまう美しくも儚い氷柱(つらら)の運命(さだめ)に、自分の今のありようを重ね合わせてしまうともうたまらない。それほど切なくもいとおしい曲想なのである。古川が音のウェイヴを創りだし、浜田がメロディの端緒を語り、天から舞い降りたが如くに燦々と降りかかる赤木のフルートがそれを引き継いでリードする。時にお互いの伴奏に回ったかと思えば、ひたひたと輪奏へ遵ってゆく。このユニット名の“静三角形”の意味する原型は、まさにここにある。三辺平等で過不足ない、静謐なれども撓みのないトライアングル、というわけだ。この曲が冒頭に据えられていたが故に、私はアルバムの最後の1曲まで浜田ワールドの虜になってしまった。

赤木りえは、まるで「ハーメルンの笛吹き」である。このユニットは、強烈なアピールを自ら発露しないが、一度その誘いにつられて体験すると二度と離れられなくなる。たぶん、その魅力の中核へ引き摺り込むのが、この人の役目だ。ためらい箸が、ない。ビブラートの掛け方から推測すると、クラシックの素養が高く反映されている。基礎がしっかりしている方の大概は、窮屈な狭義にはまってしまって、杓子定規に吹いてしまう手合いも多い中、何とも大胆で力強い演奏を展開する。吹き抜けるひとときのサマー・ブリーズのように、このユニットの風通しをよくして、どうしてもマイナー調の選曲が多い傾向に、一種の軽やかさと明るさを与えているのは、この人のフルートだ。芯が太いその音は、いくら静かな曲であるからといって、何も静かに吹いているわけではないということがよく分かる。「亡き王女のためのパヴァーヌ」「PRELUDE NO.4」などのクラシック曲の名著改題に、その資質がよく出ているように思う。「亡き王女のためのパヴァーヌ」などは、表題の意味が、まるで哀しみを希望に託したサウダージへと、良い意味での変節を遂げている。出だしは、まるでスティービー・ワンダーの「サンシャイン」のよう。これにバックビートでボサノヴァが被さってくる。「あれ、これってあのパヴァーヌだったっけ?」と思ってしまうエスプリの効いた編曲も見事なのだが、この捧げ歌のディーヴァは間違いなく赤木のブレのない意思と解釈に貫かれたフルートなのだ。「PRELUDE NO.4」は、確かにショパン作曲のクラシックではあるけれど、ジェリー・マリガンの名盤「ナイト・ライツ」においてボサノヴァ調で録音されており、そこが出典と思われる。このユニットにもしっくりくる選曲なのだが、まさかバリトン・サックスのジェリー・マリガンのパートを、赤木のフルートがテイクオーバーするとはね・・・。目から鱗のテイクである(この場合、耳から鱗というべきだろうか)。これが、望外良いのである。頭の中ではマリガンのすでに定番となった野太い低音がのたくっているところに、例のハーメルンの笛が囁きかける。気がついた時には、すっかり耽溺している。

このユニットの最大のミステリーにして最高のサプライズは、古川麦の存在である。あなたは、ここでスター誕生の瞬間に立ち会うことになるだろう。新人ギタリストながら、ボサノヴァという動脈を通し、ベースとドラムスのないトリオへ一貫して良好なバイブレーションを与え続けたのは、古川のギターである。遊びは、ない。というよりも、完成された2人の先輩プレイヤーを前にそんな余裕もなかったのだろうが、敢闘賞ものの活躍である。ギターの演奏技術にはまだ伸びしろがあるが、このトライアングルにおける演奏を成立させたところで、すでにその実力と可能性には折り紙がついているとは言えないだろうか。そして、必ずやその素晴らしさが後日話題になること必至なのが、彼の歌声である。それは、「GLOW」「OF THE SEA」で体験できる。若き日のチェット・ベイカーをもう少し低音寄りに落ち着かせたら、きっとこんな感じになるに違いない。耳元で囁かれるような、繊細でまるでシルクの手触りのようなセクシー・ヴォイス。英語とポルトガル語のヴォイス&ディクションも、ほぼ完璧。悪用厳禁のボーカルである。ボサノヴァの世界には、国内で小野リサのようなスターが登場して久しいが、男性のボサノヴァ・シンガーではと聞かれたら、古川ほどの可能性を秘めた逸材を私は寡聞にして知らない。

QUIET TRIANGLEという磁場に吸い寄せられて、そこで体感したものは、音のゆらぎと響きが与えるカタルシスと、人間の持つ自浄能力のようなものだ。普段の生活の中で聴くヴィブラフォンの音は、大概はカ行の響きだけれど、浜田の音にはカ行のあとに小文字のア行のニュアンスが含まれているように思える。“カーン”という音と、“カァーン”という音は違うが、そこに与えられた息吹とは、演奏からすればコンマ1秒のマレットさばきに過ぎない。けれども、知覚する人間はそこを鋭く嗅ぎ分けてしまう。良いものは、貪欲に体内に取り入れる性(さが)と自浄作用があるからだ。その耳は何も特別なものではなく、誰もが持っている。ヒップホップで満たされた耳にも届くチャンスさえあれば、この音楽が浸透していく確信が私にはある。ところが情報過多ないまの社会では、必要なものは寸断され、不要なものはおびただしく氾濫する。良質なものは、簡単に行き渡らないシステムなのである。浜田がそこまで仔細にこだわる人間かと尋ねられたら、それは音楽を聴けば明確に分かると答えるだろう。オリジナル曲の慈愛に満ちた表情、そしてそれら良いものを次代へ継承していこうという強い意志(「蘇州夜曲」を取上げたあたりにも感じて欲しい)。これらの要素は、付け焼刃では持続しない。このユニットに成り代わって自分がこのアルバムを激賞している理由は、そうした高邁でまっとうな想いを作品を通じて浜田やメンバーとシェアできたからであり、楽曲にまばゆいばかりの色彩が内から溢れ出るような境地に浜田が到達している現況を、皆さんに見逃してほしくないからである。最後に、もう1曲だけお奨めの曲を。「NIGHT LIGHTS」である。前述のジェリー・マリガンのアルバムのタイトル曲だが、これが全曲中最もジャジーでかっこいい。この曲、マリガンの役を冒頭で浜田が務めている。ただし、生涯ピアノレスが好だったマリガンが、この曲ではなぜか自らのバリトン・サックスを置いて、ピアノを弾いているのだ。つまり、マリガンのピアノのロールをなぞって、奏者がソロでリレーしていくのだが、赤木がまるで尺八の音色かと思うほど、フルートにしてはワイルドな音で漆黒のしじまを表現する。その後である。ゲスト参加しているTOKUのフリューゲルホーンが、絶妙のソロを奏でる。痺れる。これが実にスモーキーで、淡いネオンの表情を鮮やかに浮かび上がらせていくのだが、ここ数年聴いたレコードの中で、ジャズにおいてはベストのソロである。彼はこんなにも凄い演奏家であったか。良い音楽は、伝播する。トライアングルの熱気に煽られて、演奏がスパークしたに違いない。こんなアルバムを紹介できる私は幸せだ。まさに、福音。求めよ、さらば与えられん。             

ジェイク 森 /グッド・ミュージック煽動家
 元スウィング・ジャーナル編集主任