音楽って何だろう その30
 前回は富良野の小田嶋さんのお話でしたが、続きとして富良野での交流コンサートで大変お世話になったもう一人の人、日里雅至(にっさとまさし)さんについて少し紹介したいと思います。
 富良野に行ったE音会の人は、目がクリンとして、声が大きくて、冗談ばかり言っていて、優しいおじさん、 そして千歳空港までバスで迎えに来てくださった人と言えばお解りになるでしょう。 
 この人の生い立ちは、小中学校が私と違ったので全く分かりませんが、小田嶋さんの話では、「小学校の一年生から6年生の間ズーーット健康優良児だったらしいんだ。中学では野球部でキャッチャーだったし、根っからの体育会系なんだ。高校を出たら東京の三越に修行を兼ねて就職して2,3年勤めて家業を継いだらしいよ」と言うことです。学年で言うと、私や小田嶋さんより一つ上になります。小田嶋さんもそれで詳しくは知らない様です。
 日里さんの家業は呉服店です。小さな町にしては立派な老舗です。そして市議会議員の仕事もしています。何時も冗談めかした事を言って居るのに、いざ仕事となると(家業も議員も)大まじめになります。そのギャップは何処に起因しているのか、長く深くつき合っている小田嶋さんにも分からないらしいです。私と小田嶋さん二人の間では、健康優良児と体育会系が根っこに有ると言う事で落ち着いています。
 私が日里さんと初めて会ったのは、36才くらいになっていたと思います。富良野青年会議所の25周年記念のイベントに富良野出身の文化人?として呼ばれた時日里さんは世話役をしていました。初対面なのに慣れ慣れしいので、私の子供の頃の事を知っているのかな、と思ったくらいです。私は小田嶋さんとの繋がりでよばれていたのですが、何故日里さんが慣れ慣れしかったのかは後になって分かりました。
 実は、小田嶋さんが東京での生活を諦めて富良野に帰った時(小田嶋さんも家業を継ぐために帰ったのです)青年会議所絡みで富良野の人達とのおつき合いが始まるのですが、何しろ実業家としては富良野のことを右も左も分からない状態で帰って来ているので、そこで何となくウマがあったのが日里さんだった様です。青年会議所が町おこしの活動に力を入れている時に、Uターン組の二人が面白がって色んな企画を立てて、それなりに成功させて株を上げていった、と言うことなんでしょう。恐らく有る面では浮いた存在だったのかもしれません。小田嶋さんが結婚するまでは、毎日の様に日里さんの家に泊まりに行っていたそうです。
 その後、富良野は「北の国から」の大フィーバーに見舞われて、小田嶋さんは前回書いた様な羽目になって仕舞うわけです。当然その時もその後も、小田嶋さんは重要な事が有るたびに日里さんに相談したり、探りを入れたりしながら現在まで来ています。
 そんな二人ですので、25周年記念のイベントの時には私の事はもう小田嶋さんから筒抜けになっていて、日里さんにしてみれば浜田という奴は古くからの知り合いと言う意識になっていたのでしょう。私もその後は、富良野で何かやるときは、小田嶋さんと同じくらいに日里さんにお世話なっています。E音会交流コンサートに関しても、実は、実務的な交渉や、段取りは日里さんの力に寄るところが大きいのです。
 市議会議員の活動の中で、日里さんが力を入れているのは福祉です。その活動の関係から、E音会交流コンサートの宿舎と会場の手配をしてくださいました。体育会系なのに、ハンドベルの事は大好きで、自分でもロータリークラブで演奏しています。そして何よりも子供が何かに真剣に取り組んでいる姿を見て感動するタイプの人です。
 昨年、品川プリンスでの富良野の人達のパーティーの時、E音会が呼ばれて演奏しましたが、演奏が終わって皆が引き上げるとき、日里さんが大きな声で「又富良野に来てね」と言っていました。そして終わった後で「みんな大人っぽくなっていたな」と我が子の成長を見るように喜んでいました。良い人です。日里さんの言葉通り又呼んでくれると良いですね。

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