音楽って何だろう その29

 富良野での交流コンサートの話を具体化してくれた重要な人が二人います。小田嶋忠弘(おだじまただひろ)さんと、日里雅至(にっさとまさし)さんと言う人です。 
 小田嶋さんは、E音会「きゅりあん」コンサートの話で登場しましたが、オフィスフラノと言う会社の社長さんです。私も富良野で生まれて、15才まで暮らしました。小田嶋さんとは中学校で一緒になったのですが、クラスは一緒になったことはありませんでした。でも、それなりに知っていました。小田嶋さんは背が小さい(人より体の成長が遅かったのかもしれません。その証拠に今はスラッとした長身で、イイオトコです。)可愛い感じの男の子でした。そして何時もトッポイ格好をしているので、目立っていました。私は、「そんなズボン履いたら駄目だぞ!」と言った記憶が有ります。早速小田嶋さんのお母さんが、私の母に「うちの子は気が弱いから虐めないでください。」と抗議に来たというエピソードがあります。かように決して仲がいい友達では無かったのです。小田嶋さんの浜田に対する印象は、もっとはっきりとした物です。大人になってからおつき合いするようになっても、ことあるごとに言っていますが「浜田は嫌な奴だったんだ。勉強が出来て、スポーツも得意で、体も大きくて、木琴も上手に弾けて、ワルのグループにもケンカを売って、オレみたいな奴には一番嫌なタイプだったんだ。オレは小さいから、ワルに虐められないように旨くバランス取って生きていたのに、浜田はそんなこと関係ないからね。ただ、一つだけ、こいつはオレとは全然違うんだなと思った事があるんだよ。3年生の時の弁論大会で、浜田が“先入観について”という話をしたんだ。中身はあんまり覚えてないけど、同じ中3なのにこんなに違う奴がいるのか、ってびっくりしたよ。オレなんか、先入観なんて言葉を使った事も考えたことも無かったからね。浜田は何をやっても、やって行けるんだろうなと思ったよ。」と言うものです。面白い事に、今でもお酒の席でその話がでます。私はむしろ、そう言うことをきっちり覚えていて、しかも、現在の仕事に何かしら生かしている小田嶋さんに敬意を払います。小田嶋さんは基本的に頭が良いのです。体が小さかった為に、必要の無い警戒をせざるを得なかったということで、中学生の時は限られた時間を有効に使えなかったのでしょうが、その後の人生にちゃんと生かして元を取っています。本当の頭の良さというものを考えさせてくれたのは小田嶋さんです。
 そもそも、小田島さんがどうしてオフィスフラノの社長になったのかと言いますと、富良野が舞台のテレビドラマ「北の国から」に関係があります。「北の国から」に出てくる黒板五郎の丸太小屋がスペシャルドラマの中で燃えてしまう(実際は本物そっくりのセットを燃やした)ことになり、もうテレビで使わないことになった。それを機会にその丸太小屋を中心として富良野観光の拠点を作ろうという話が出たとき、たまたま小田島さんに白羽の矢が立ち、それではと会社を興したのです。(それが今のオフィスフラノです)富良野を面白い町にしようと色んな活動をしていたグループの最年少者だった小田島さんは、先輩の言うことは絶対だと思っていましたので、もしかしたら貧乏くじを引いたことになったかもしれません。貧乏くじは最年少者が引く物というのは相場が決まっていますからね。何故かと言いますと、その丸太小屋は富良野の市街地から車で30分近く掛かる「麓郷」という場所にあったので、そんな所に来る酔狂な人はそれほどいないだろうから、若い小田嶋に任せておけ、てな事だったんでしょう。ところが、ところが運も良いのでしょうが(運も実力の内です!!!!!!)そんなに多くの人は見に来ないだろうと思っていた「麓郷の森」にワンサカ人が来てしまったのです。それは、予想していた人数の何十倍何百倍というもので、最初はパニックの日々だったそうですが、その騒ぎにも慣れて「じゃ、どういう風に経営していこうか」と腰を据えて考えたそうです。普通の人なら、「麓郷の森」にお土産屋を作って「北の国から饅頭」でも売ってなんて考える所ですが、(学園祭のお店が食い物屋でまみれているのを見れば分かりますよね)小田島さんは違いました。今、富良野に来ている人達は、「北の国から」の影響は勿論だけれど、富良野の風景を見て感動しているのだから、「麓郷の森」に来た記念は富良野の風景や富良野のイメージにまつわる物だ。重要なのは儲かるか儲からないかではなく、みんなが富良野に抱いている富良野の良いイメージに合った商品を作る事だ、という発想をしたそうです。そこで、写真、絵、ビデオソフト、音楽、と言う物に先行投資して行く事を決意したそうです。写真、ビデオは那須野ゆたかさん、絵は葉祥明さん、そして嬉しいことに音楽は私を選んでくれたのです。まあ、富良野出身と言うことが、決めた理由の9割でしょうが。それでも、私は嬉しかったです。自分の音楽活動に煮詰まっていた時期ですから、何か新しい光が見えるのではと思って全力で小田島さんのプロジェクトに参加しました。
 最初は、写真家の那須野ゆたかさんが一年掛かって取り貯めたビデオの映像に、音楽を付けてくれないか、と言う話からでした。1988年のことでした。早速送ってもらった映像を見たのですが、それは本当に鳥肌の立つ物でした。ビデオ撮影に関しては未だ技術的に稚拙な所が有りましたが、一流の写真家の目で捉えた映像は、とんでもなく素晴らしい物でした。美瑛から富良野にかけての丘陵地帯の風景がこんなに感動的だと言うことを、出身者の私が何も知らなかったと言うことに驚き、そして唖然としました。そのちょっと気恥ずかしい気持ちをバネに、3ヶ月ばかりの間全身全霊をかけて音楽制作に取り組みました。それが実を結んだのが「彩の大地」と言うビデオソフトです。
 さらに、1993年ほぼ一年掛けて富良野に寄せて作曲した私の作品集「夢のとき」がオフィスフラノから発売になります。この時点では、もはやオフィスフラノは単なる「北の国から」で使われた丸太小屋の展示の業務をするだけの会社とは違う会社になりつつ有ります。すでに葉祥明さんとの太いパイプが出来ていて、那須野さんの写真が外資系大手保険会社のカレンダーに採用され、NHKBS放送で「彩の大地」が随時放送され、、等々の事が有って、「地方でもこんな魅力的な仕事が出来るの?」と言う羨望の目で見られ始めていました。
 この時、私個人的には、最初の子供にやっと恵まれたと言うことが分かった時期でもありましたので、これまでにやって来た音楽の仕事(殆ど吐き捨てるようにやってきました)から離れて、自分の人生と向き合うような作曲作業をしました。これほど愛おしい時間を持てたのも初めてでした。富良野に寄せてと言うのも有りましたが、これから生まれてくる私の子供に寄せたと言う意味合いも有りました。この様な仕事をさせてもらって、私は小田嶋さんに全幅の信頼を寄せるようになってしまいます。
このCDが縁で富良野に「フラニスト音楽クラブ」が出来て、「夢のとき」の曲をハンドベルを交えて演奏する事になります。親子でハンドベルに取り組んでいる姿は感動的でした。しかも、市民楽団(ブラスバンドのOB、OGで結成された歴史のある楽団です)が一緒に取り囲む様に演奏してくれるのですから、絵図らも素敵でした。この時の体験がE音会結成にに結びついています。市民レベルでサークルを継続するのは難しい事ですから、現在ハンドベルサークルは市民全体のサークルとしては休止中で、幼稚園、病院、市民楽団の有志、ロータリークラブの有志、と言う小さなサークルに受け継がれています。交流コンサートの時も子供達が期末試験中で参加出来ず、市民楽団の有志、ロータリークラブの有志がハンドベルの演奏をしてくださいました。E音会の子供達は富良野の同じ世代の子供達との交流も期待していたので、ちょっと残念でした。
 1994年にはビデオ版「夢のとき」も制作されます。音楽は全く新しい物を作りました。「彩の大地」から5年たってますので、那須野さんの技術の上達も素晴らしく、文句無しの作品に仕上がりました。このビデオソフトに収録された曲が非常に評判が良くて、翌年4曲抜粋したシングルCDも発売されます。その中の一曲が「聖なる丘に天使が遊ぶ」です。私の子供がお昼寝している時の小さな手を見ていて出来た曲なので「Little Hands」と呼んでいました。これが1998年に発売された葉祥明さんの絵との共作CD「Holy Hill」に繋がって行きます。そして、E音会は葉祥明さんとの出会いにも恵まれ、親しくさせていただく事になります。 続く。    

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