音楽って何だろう その26

 この日は葉祥明さんが美術館に来る日だという情報を、館長の葉山さん(弟さんで、葉祥明さんのマネージメントもしています。)から聞いていましたので、先生が美術館に到着する時刻に合わせて演奏する段取りを取っていました。門のところに着いたとたんに演奏でお迎えする、と言う手はずです。葉山さんも、その段取りに協力してくださって「今、北鎌倉に着いたから5分くらいで来るでしょう。」と教えて下さいます。最高の演出をするべく、手ぐすね引いて待ちかまえていました。ところが、待てど暮らせど先生は現れません。
 門の外で葉山さんと、今か今かと待ちかまえながら、色々と先生に関する面白い話を聞かせて頂きました。「何時もこうなんだよね。普通に歩けば5分ぐらいで着くはずなのに、途中で何か気になることが有ると、そこで引っかってしまうんだな。本当に幸せな人だよ。世俗と言うことから無縁で生きているからね。」私は、でもそれは、周りにいる人達の協力、特に葉山さんの様な人がいないと出来ないことでしょう、と思いながら聞いていました。「芸術家はそれで良いんだよね。芸術家が世の中の交渉ごとに巻き込まれるのは、良くないことだよね。本当に幸せな人だと思うよ」と、ここまで言われると、先生はよっぽど浮世離れしているのかな、そして、葉山さんはよっぽど大変なのかな、と思ってしまいます。でも、もっと面白そうな話が聞けそうなので、私は「へえ、本当にそうなんですか」程度の相づちを打つ事にしました。「一時期、世の中から全く相手にされなかった時期があってね、それから賞を取って、又注目されるようになったのだけど、彼は何時も同じでね、、、、でも、今は絵の締め切りに追われたり、講演も沢山有るので、今の方が大変だと思っているんじゃないかな。この美術館も本当は住もうと思って建てたんだけど、良い建物だから美術館にしんだよ。本当は彼は住みたいはずだけど。」「普段はどういう生活なんですかね」「一日中空を見ていたこともあったみたいだけど、最近はそれも儘ならないのかな」と、色々面白い話をしている内に、先生が角を曲がって現れました。
 ハンドベルの演奏の事は、勿論内緒(葉山さんは「打ち合わせが有る」と言って呼んだそうです)でしたから、先生は「やあ、しばらくです。」と私に挨拶をして、どうしてここに居るの?というちょっと怪訝な表情と、良く来ましたねという歓迎の笑みが混ざった顔をしています。
 私が、門の入り口まで一緒に歩いて行って、そこで演奏が始まりました。思惑通りです。しかし、この時の先生は、又面白くて、全然驚かないのです。その代わり実に嬉しそうです。かと言って、如何にも日常の中で嬉しい楽しい好きな事に出会った時の様な表情です。まるで、毎日食べている好きなアイスクリームを目にしたような表情です。あくまでも特別なアイスクリームを目にして嬉しがっているのではなく、いつものアイスクリームを見た時の喜びの表情なのです。私は葉山さんの言っていることに、この時の先生を見て納得しました。世俗にとらわれないで生きる、というのはこういうことなんだな、とも思いました。特別な事に特別な反応をするのでは無く、特別な事も日常の中の出来事で、それを自分の日常の中で感じている。だって、私たちが、毎日目にも留めないような事に(自分の感覚の中から捨てている?)先生は興味を持って「道草」をしてしまうのだから、周りのことが、全部「特別」な事で、全部「特別じゃ無い」ことなのでしょう。よく考えると、私たちが子供の時がそうだったな、と思い当たります。特に私は“大”田舎の子でしたから、毎日学校に通う道は同じなのに、毎日何かを発見して「特別であって特別じゃ無い」生活を送っていた様な気がします。道ばたの草や虫に毎日興味が有って、空想をふくらませていました。
 私の小学2年生の子も、こんな都会に住んでいるのに、大喜びで「今日何とかという虫を見つけたよ」と教えてくれたり、真面目に泥団子を作っていたり、「道草」が大好きです。多分、先生は同じ感覚で生きていらっしゃるのでしょう。それが、「絵」や「詩」になって現れてくるから素晴らしいのです。これは、やはり、葉山さんの言う「幸せな人だ」という事が当てはまっています。だって、多くの人は「世俗」と上手につき合わないと生きていけませんからね。

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