音楽って何だろう その3

 その2の音の強弱の話に引き続き、その3は、音の大小(音量 volume)についてお話します。音量はステレオとかテレビのヴォリュームを想像すれば分かり易いと思います。ギンギンのロックでもヴォリュームを絞れば迫力は無くなりますし、小さな鈴の音でもヴォリュームを上げれば耳が痛いぐらいの音になります。もともと楽器(物質)には、これ以上大きな音は出ないと言う音量の限度が有るのですが、それは形と大きさと重さで決まります。同じ様な形で、それが良く解るのは、仏壇の鐘と、除夜の鐘でお馴染みのお寺の鐘との音量の違いでしょう。どんなに頑張っても仏壇の鐘は、お寺の鐘より大きな音は出ませんよね。でも、仏壇の鐘にメガホンの様な物を添えて鳴らしてみたり、大きなテーブルの上に直に置いて鳴らしてみたりすると、かなり大きな音になります。これは共鳴という現象です。一度実験してみると面白いですよ。相当音量に差が出ます。このことが、今有る楽器の形を決めて来ました。

 どういうことかと言いますと、昔は音楽は小人数に聞こえれば良かったのですが、時代が進むに従って多くの人に聴かせなければならなくなりました。王様や貴族が特権的に音楽を楽しんで、お抱えの音楽家に演奏させていた時代から、資本主義の社会になり、誰でもお金さえ払えば演奏を楽しめる様に変わってきたのです。当然、経済効率としては、一度に多くの人に演奏をきいてもらうのが良いわけで、それに伴って音量の大きな楽器が求められた訳です。それで、仏壇の鐘の実験の様な改良を施して現代の楽器が出来ています。勿論音量の事だけでは無く、演奏のし易さ、音色の美しさ、という面でも改良されていますが、一番求められたのは音量のことでした。一台の楽器で無理ならば沢山の同じ楽器に同じ演奏をさせて、共鳴を稼ぐことで音量を出せる様にもしました。オーケストラもブラスバンドもそうですよね。

 さらに20世紀に入ると電気的に音を増幅する事が始められ、今や何万人の人にでも聴かせられる音量を持てる様になりました。これは一面では機会均等と言うことで良いのかもしれませんが、音量の小さな美しい楽器を、すぐ側で聴くという事が、非常に贅沢なものになってしまいました。それを楽しむには、一人一人の負担が大きい演奏会を開くか、演奏者に理解を求めて泣いてもらうか、(交渉の末、出演料のディスカウント)自分で演奏して自分に聴かせるしかないということでしょう。

 残念な事ではありますが、経済効率の外側に、実は良い音楽も沢山あります。そして、それが人の優しさとか慈しみに大きく関係しています。このことは音楽以外のことでも、むしろ、音楽以外ことでの方が、多くある現象かもしれません。

 人の持つ優しさと慈しみは、相続税がないのですから、子供たちに、がんがん、どんどん、フルヴォリュームで残し伝えましょう。特に日本の様に、大企業でも、根本の所はアキンド魂でしか活動出来ないような社会では、(もっとひどいのは政治屋で、選挙に当選する為だけに日々過ごしているという、逆転野郎が多いですよね。でも、こいつらは、やめてもらえる可能性があるのでまだ良いですけど)個人から個人に人間の大切な物を伝えて行くしかありません。

 「経済効率」と「人の持つ優しさと慈しみ」がうまく折り合いの取れた社会こそが、資本主義の究極の理想形なんでしょうね。

 その4では、音楽に於ける時間の話です。

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