「E音会」(八潮の子供達といい音楽を作る会)って何?

 この会は東京都品川区八潮5丁目という、いわゆる団地の住民によって作られました。

 この地域はまるで出島のような環境に作られた団地です。団地というのはそもそも、一から集落を、機械的に公の機関が作って、何の関連性も持たない人達がそこに居住する、というものです。当然昔からのシガラミもなければ、それから自由でいようと思えばある程度自由でいられます。長く住む人もいれば、いずれ郊外に一戸建てを、と考えている人もいます。その意味で、人々の付き合いも、今までに無いようなものが生まれたりしています。極端に言えば地域との関わりを「シカト」していても、生きて行く事は可能です。そして居住空間を上へ上へと延ばす為、その地域の外観は明らかにそれまでの町並みと違います。そんな団地の特徴を、さらに出島のような所に作り上げたのが「八潮団地」なんです。取りあえず、インフラも整備されていますし、人工の緑地も豊富に有ります。(殆どカラスに乗っ取られていますが)善くも悪くも「生活空間の実験場」みたいな所があります。

 殆どの人は、快適に暮らしたい、さらに子供を持った人は子供の為にも良い環境を作りたいと思うものです。団地の様な特殊な空間の方が、そういう環境を作りやすいはずだと思えるのですが、実際はどんどんハチの巣の様な小さな空間に囲い込んで行って、とりあえず鉄の扉の内側だけが平穏無事なら良いという傾向も強いです。反対に、イベントだけやって「地域の交流は万全だ」などと勘違いしている人たちもいます。こんな、アリバイ作りの、飲んだくれオヤジが嬉しがるだけのイベントなんて、やらない方がましです。何十年も、何百年も続いている町(地域社会)の上っ面だけ真似しても子供の為に良い環境が作れるわけでは無いのです。そう言う昔から続いている地域の良いところは、住んでいる人たちの「顔」がお互いに見える、例えば「あの子は、ダレソレの家の子だ」というのが皆分かっていて、怖いオヤジと、口やかましいオバさんがいて、訳の分からない、でも特技が凄い爺さんや、無条件にかばってくれる婆さんがいて、、、、という日常に根ざした所なんです。

 八潮団地では、学校が違う、学年が違う、クラスが違う、というだけで子供同士は勿論のこと、大人と子供の関係は無機的なモノになっています。早い話が大人と子供が道で出会っても「やあナントカちゃん」と声を懸けられる環境が無いのです。「顔」の見える地域社会になって行くのは日常の問題ですから時間が掛かりますし、簡単な事では有りません。そもそも猿としての社会性を未だに強く持っている人間にとって、挨拶は重要な精神安定と集団の平穏をもたらします。猿は知っている者同士でも必ず毎日御機嫌伺いをします。たまに、この手続きを怠った若い牡猿などがボス猿に徹底的に懲らしめられることで集団の秩序がはかられたり、ボス猿が小猿の毛づくろいを丁寧にやって親密さを維持する光景は良く見られるものです。猿はこの事で集団という社会を学んで行きます。将に「顔」の見える地域社会を作っています。

 ところが今や「八潮団地」に限らず特に人口密集地で社会は崩壊していて、子供が殺人を犯してしまうまでになってしまいました。この団地でも、中学生、高校生達の荒廃は拡大加速しています。一つの価値観だけで子供を扱う学校の問題がそのまま地域社会に移植されているかの様です。単一の価値観から見放された子供達にとって、行き場の無い、自暴自棄な気持ちになってしまう状況を、大人達が作ってしまいました。それこそ、「人間は勉強とか、お金だけで生きてるのじゃ無いんだよ」と言ってくれる人が、余りにも少なくなってしまった所為なのです。その他にも色んな原因が有るにしても、大人が子供に声を懸ける=毛づくろいをする、が不足している、と私達は考えました。一番簡単な声を掛け合う事も出来ていない地域社会は、どんな子にも良い環境では有りません。

 子供にとって大人は何時の時代も煙たいものですが、それは大人が子供に注意を払って呉れるという前提の上で成り立っている感情でした。いわゆる甘えの一種なのですが、このバランスが崩れるとダメなんだというのが日本的民主主義教育の実験でかなり見えてきました。自主性、自立性を育てるのと、放ったらかしとは明らかに意味が違うし、大人と子供は一緒に社会を構成していると言う事は、考えている以上に重要なのです。「社会性」は日常的に学習する物ですし、それは、地域社会の全ての人たちに関わっている問題です。せめて、大人が子供に声を掛けられる地域社会という段階をクリアーしないと、荒廃した子供達は救われません。

 心ある大人達は自分が得意とすることや出来ることで、とりあえず子供達と知り合おう、学校などの枠を取り払って地域の子供達と知り合いになろう、そのことで、いつでも子供達に声を懸けられる環境を作って行こう、この事を今までの反省の中で考えました。アリバイ作りのイベントでは無く、自分が無理しないで出来る範囲で、日常的に継続した、そして一緒に取り組むことでお互いに楽しめる事で知り合いになれれば、こんなに良いことは有りません。

 そして、音楽好きの大人達が自分達も楽しみながら、地域の子供達と知り合いになって行こうという主旨で出来たのが「八潮の子供達といい音楽を作る会」(E音会)です。これを大きな組織にして、、、、などとは考えていません。自分達の等身大の社会=地域、での活動が全てです。勿論非常にオープンな会ですので、八潮以外の人達も多数参加していますが、活動の基盤は「八潮団地」です。

 音楽はスポーツに比べて、かなり個人的な要素が多いのですが、それをなんとか沢山の人で取り組める物をいうことで、E音会の活動の最初はハンドベルからでした。もともと音楽好きの人達が自分達でコンサートを企画したりという活動はしていたのですが、聴くばかりではなく、音楽を作り上げることで交流を広めよう、と言う事になりました。そして、大勢で、楽器をやったことが無い人でも出来るもの、と言う事でハンドベルに取り組む事になりました。メロディーや和音を、それぞれの音のベル担当の人に振り分けて、音楽として聞こえなければいけないのですから、相当チームワークが求められます。思ったより簡単に行かなくて、大人も子供もゲームをしている時の興奮と楽しさを味わえます。そんなことをやっている内に何時の間にか音楽になっていて、そしてその音楽に愛着を覚えて行けば行く程、皆が振るベルからは素晴らしい音楽が生まれてきます。ちょとした魔法です。一度これを体験するとハンドベルの虜になってしまいます。

 音楽的に言えばアンサンブルの原点の様なものです。流れる様なメロディーは一人一人がメロディーを心の中で歌っていないと出てきませんし、綺麗な和音は同じテンポを感じて同じ強さの音で振らなければそうなりません。このことは他の楽器を使ったアンサンブルでも常に求められる事ですから、ハンドベルのゲーム感覚で培った音楽の大事な要素は他でも立派に活かされます。

 「良い音楽」というのは、サーカス的な技術の表現でも、商業的に指示されていると言うことでも有りません。増して「良い音楽を作る」(表現する)と言うのは、もっと違います。ある音楽をどれだけ愛して、時間を掛けて大切にしてきたか、と言うことに尽きます。拙い技術でも、それは人に伝わります。そして何よりも自分自身の充足感が持てるのかと言うことが大事な事です。非常に日常的な事なんです。技術だけ教える何とか教室、コンクールの為だけに音楽を消費している学校の音楽関係クラブ、数年後には「ダサ」くなっている流行り音楽、これらの音楽は「良い音楽」とは何にも関係ない物です。逆に言えば、最初から「良い音楽」が有るのではなく、一人であろうと、複数であろうと、それを作って行く物なんだというのが「良い音楽を作る会」の考え方です。そして、音楽を作り上げる過程で、参加している人達に何時の間にか交流が生まれている、という事を大切にしていきたいと思います。何かを作り上げる時の達成感を大勢で分かちあえるというのは、なかなか有りそうで無い事ですから、嬉しいものです。ましてそれを大人と子供が一緒に出来ると言うのはもっと無い事ですから。

 E音会はハンドベルクラブを核にして、色んな楽器とのアンサンブルも考えています。ハンドベルだけのアンサンブルのクラブは色々有るようですが、それに色んな楽器を組み合わせて行く事でハンドベルの良さがさらに引き出されると考えています。

 又、昔バンド少年だった親父さんと、今バンドやっている子供達とでバンドを作ろうという活動も始めています。

 勿論この会の最初の頃の目的だった、本物の良い音楽を子供達に聴いてもらおうという活動もどんどんやって行きます。

 そして、何よりも、E音会の活動を通して大人と子供が声を掛け合える機会が増えれば、と考えています。

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