アメリカツアー面白話 33
 Japanese American National Museumでの常設展示の「アメリカにおける日本人移民の歴史」の続きです。展示の内容を解説しています。(その3)

第二次世界大戦(太平洋戦争)での日系人強制収容所の解説

市民権剥奪 また、強制収用に伴いアメリカの市民権を剥奪された日系アメリカ人の市民権は、1945年8月に日本との間の戦闘状態が終結したにもかかわらず、サンフランシスコ講和条約が締結され、アメリカを始めとする連合国による日本占領が終了した翌年の1952年6月に行われた、マッカラン・ウォルター移民帰化法の施行まで回復されなかった。

第442連隊について 1943年2月には、日系人による連隊規模の部隊が編制されることが発表され、強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められた。部隊名は第442連隊 であるが、歩兵連隊である第442連隊を中核に砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなった。ハワイからは 2,600人、アメリカ本土の強制収容所からは800人の日系志願兵が入隊した。日系人部隊は当初、白人部隊の「弾除け」にされるのでは、という軍上層部の危惧により戦闘には投入されなかったが、1944年9月に部隊はフランスへ移動し、第36師団に編入された。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯で戦闘を行う。10月15日以降、ブリュイエールの 街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた。なお戦後のブリュイエールでは、部隊の活躍を 記念して通りに「第442連隊通り」という名称がつけられ、ブリュイエールでは1994年10月15日には442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われている。1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊(通称:テキサス大隊 テキサス州兵により編制されていたため)がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。第442連隊戦闘団にフランクリン・ルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り10月30日、 ついにテキサス大隊を救出することに成功した。しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の約800名が死傷している。この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に 数えられるようになった。欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、歴史に名前を残 すことになった。特にその負傷者の多さから、名誉戦傷戦闘団(Purple Heart Battalion)とまで呼ばれた。戦闘団は総計で18,000近くの勲章や賞を受けている。日系人部隊の輝かしい活躍と目覚しい勲功とは裏腹に、戦後のアメリカ白人の日系人への人種差別に基づく偏見は変わることがなかった。部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちを待っていたのは「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といったアメリカ人たちの冷たい言葉であり、激しい偏見によって復員兵たちは仕事につくこともできず、財産や家も失われたままの状態に置かれた。このような反日系人的な世論が変化するのは1960年代を待たなければならなかった。
 この話が私には一番心を打つものであったし涙が自然にあふれました。続く 

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