アメリカツアー面白話 31
 Japanese American National Museumでの常設展示の「アメリカにおける日本人移民の歴史」の続きです。中国人、日本人に対する「黄禍論」が根っこに残っているうちに、今度は第二次世界大戦という悲劇が起こってしまいます。私がこの展示で感慨深く思った事の中で一番の場所です。

第二次世界大戦(太平洋戦争)での日系人強制収容所の解説

1941年12月の真珠湾攻撃で始まったアメリカとの戦争ですべての日系人は収容所に入れられた。大統領行政令9066号が発令された後の1942年2月下旬から、カリフォルニア州やワシントン州、オレゴン州などのアメリカ西海岸沿岸州と準州のハワイからは一部の日系アメリカ人と日本人移民12万313人が強制的に完全な立ち退きを命ぜられ、地元警察とFBI、そしてアメリカ陸軍による強制執行により住み慣れた家を追い立てられ、戦時転住局によって砂漠地帯や人里から離れた荒地に作られた「戦時転住所」と呼ばれる全米11か所に設けられた強制収容所に順次入れられることになった。アメリカ国内における全ての強制収容所は人里離れた内陸部、その多くは砂漠地帯に設けられていた。しかも、逃亡者を防ぐために有刺鉄線のフェンスで外部と完全に隔てられている上、警備員の銃口は常に収容所内部に向けられていた。

施設 
 強制収容所内には、急ごしらえの粗末な住居や各種工場や農場、病院、商店、学校、教会、劇場などが作られており、これらの施設で働くものには給与が与えられた。また、強制収容所内における移動は自由に行われたが、一部の許可されたもの以外は強制収容所内の病院で治療することのできない病気や怪我にならない限り自由に外部に出ることはできなかった。

住居 
 強制収容者の住居に宛がわれた建物は急ごしらえの木造の「バラック」というべき粗末なもので、家具も粗末なものしか与えられず、トイレの多くは仕切りすらなかったなど衛生管理が不十分であったため、集団食中毒や集団下痢などが多発した。

食事 電気や水道こそ外部から供給されていたものの、戦時中ということもあり、食料などは基本的には自給自足でまかなう事が求められており、強制収容所内における食生活(全ての食事は食堂で行われた)の多くは強制収容所内の農場で獲れた作物があてがわれていた。

リクリエーション 
 強制収容者へのリクリエーションとして相撲やバスケットボールなどのスポーツが行われた他、「アメリカ化」への思想教育の一環としてボーイスカウトが組織された。ボーイスカウトの団員は、当然のことながらアメリカ国家に対する忠誠を宣誓し、常にアメリカ国旗を掲げているにもかかわらず、「普通のアメリカ人」として扱われず、逃亡防止のために銃を向けられた強制収容所から出ることができないという異常な状況下での活動を強いられていた。

情報伝達手段 
 強制収容所内ではラジオの所持は許可されたものの、戦前よりロサンゼルスなどの日系人が多く住む地で発行されていた「羅府新報」などの日本語新聞の発行は許されず、わずかに強制収容所内の情報のみが英語で書かれ、収容所の管理者に事前に検閲を受けた情報誌の発行が許されただけであった。


  

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