アメリカツアー面白話 30

 Little TokyoのJapanese American National Museumでの常設展示は「アメリカにおける日本人移民の歴史」ですが、ついでに見たそちらの方に引きつけられるほど衝撃を受けました。見終わってしばらく涙が止まらず(見ている途中からも涙は出始めていましたが)ミュージアムのベンチに座って動けませんでした。
 展示では日系の移民の始まりから今日までの歴史を写真や文章のパネルや模型・衣類などを使って説明しています。移民の初期は大雑把な説明だとこうなります。
・移民の始まり
 ハワイ(まだアメリカではなかった)への移民は明治時代初頭からみられ、ハワイが米国に併合され、また、カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、日系移民の米本国への移転が増加する。祖国では困窮しきっていた彼らは新天地での仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いたためある程度の成功を掴む者もあらわれた。展示ではあばら家の模型や移民船の写真(詰め込まれるだけ詰め込まれている)で見られた。
・黄禍論の説明
  19世紀半ばカリフォルニア州で金鉱が発見されゴールドラッシュに沸きかえっていて西部開拓が推し進められ、大陸横断鉄道の敷設が進められた。清朝が崩壊しつつあった多くの中国人が金鉱の鉱夫や鉄道工事の工夫として受け入れられた。一方カリフォルニア開発の進展などにより農場労働者が必要になると、日系移民の米本国への移転が増加する。中国人も日本人も祖国では困窮しきっていたので辛い仕事に低賃金でも文句を言わず良く働いた。そのためイタリア系やアイルランド系(いずれも熱心なカトリック教徒)などの白人社会では、下層を占めていた人々の雇用を奪うようになる。それが社会問題化し、黄禍論が唱えられるようになった。(このときの新聞の記事に中国人だか日本人だか分らない格好をした出っ歯で細い目がつり上がった丸い眼鏡をかけた東洋人が星条旗を食いちぎっている漫画が添えられていた。この手の東洋人の漫画は白人のアメリカのメディアでしばらくはよく登場することになる。)それでも、日本人はアジア諸民族の中で唯一、連邦移民・帰化法による移民全面停止を蒙らなかった民族であった。これは日本が同地域で当時唯一、欧米諸国と対等の外交関係を構築しうる先進国であり、アメリカ連邦政府もそういった日本の体面維持に協力的であったことによる。しかし連邦政府はその管掌である移民・帰化のコントロールは可能でも、州以下レベルで行われる諸規制に対しては限定的な影響力しか行使できなかった。ということで末端に行けば政府の方針とはかけ離れた「黄禍論」という差別に見舞われていた。顕著な例として1906年サンフランシスコ市の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じたのである。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。 続く

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