アメリカツアー面白話 14
 準備も滞りなく済んで、いよいよ本番を迎えて舞台袖で待機しているときステージドリンクを持ってくるのを忘れた出演者がいて、たまたま袖に積んであったペットボトルの水に気がついた彼は舞台監督(先生)にもらえないかと尋ねるときっぱりと「No!」と言って「This is stuff only」と冷たく言い放ちました。しかし出番も迫っているので彼は考え直して、後で楽屋に置いてあるペットボトルをここに補充することでその場を切り抜けることをしました。カッコイイと思いました。毅然とした態度で原則を守ろうとして、しかし緊急事態なので瞬時に善後策を考える。素晴らしい「危機管理能力」だと思いました。
 かように舞台での分担の厳格さと、それぞれの作業の独立性と、それに対する「誇り」を感じました。そして、ここからが大事なことですが、「誇り」を持つ事の保証として音響も照明も必ず分からないことは出演者に聞いてくるし、それを恥だとか聞いて甘く見られるかな、とか考えません。なぜならば分からないことをそのままにしたり、知ったかぶりしても後で失敗したら「誇り」も何も壊れてしまいます。そういう意味では自分の「誇り」に磨きを掛けるためにも謙虚に成ることを忘れてはいけないのです。すなわち「誇り」と言うものは謙虚な気持ちに裏打ちされたものだ、と言うことなのです。そして扱った事のない楽器の音の拾い方を謙虚に尋ねてくれるとこちらも円滑にサウンドチェックが出来ます。決して知ったかぶりをしてこちらの不興を買う様なことはありません。ところが最近日本の音響関係の若い人たちはアメリカのスタイルを取り入れようと(ある種の憧れなのでしょう)していて、私から見るとはき違えているような印象を受けます。特に私の様な楽器はあまり接する機会も無いだろうし、恐らく接したことが無いくせに「プライド」だけで乗り切ろうとしてマイクをとんでもない位置にセットしたり、それを指摘されると居直ったりします。最初から謙虚にどういうセッティングが良いのか私に一言聴けば良いのです。それが彼らの「誇り」を最低限保証することになります。ところがそれを勘違いしているわけです。そういうヤツに限って「アーティスト」気取りで鼻持ちならないヤツが多いです。謙虚さに裏打ちされた「誇り」を持った職人は先ずは私に尋ねるし、楽器のそばで音がどこから出ているか、一番いい音が拾える場所を丁寧に探します。そういうことをしていただけると私も出来る限りの協力を惜しまないので、ひいては彼の「誇り」に更に箔がつくことになります。
 この話は音響に限ったことでは無く、似たような現象はあらゆる場面で起こっているような気がします。恐らく長い時間を必要とする技術や勘所が身につく前に一端の人間に見て貰いたい(北海道では良いフリコキと言います)という欲求が強いのでしょう。それは育ち方に問題があったのか、環境が悪いのか。最近一つのことをあきらめずに続けてみる、という事をしない、させない風潮が有るように思います。子どもの可能性を広げると言う美辞麗句のもとに次から次と取っ替え引っ替え「経験」を「消費」する傾向が見られます。それはお湯を掛けて3分の罪だと思います。ゲームも関係有るのかな。とにかくローマは一日では出来ません。  続く

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