アメリカツアー面白話 12

 ホームパーティーで鋭気を養って次の日はUniversity of MarylandのDekelboum Concert Hallでのコンサートです。このホールはClarice Smith Performing Arts Center of Artsの中にあります。アメリカの総合大学にはこのように芸術関係の学部が充実したところが沢山あります。しかもその充実ぶりを証明するかの様な素晴らしいホールです。Greensboroの大学の様に素朴な運営ではなく、音響も照明もちゃんとしたプロ集団(のような学生と先生の集団です)が担当します。授業の一貫としてやっているようなので、音響、照明の先生達もピリピリしています。
 原則として、舞台(ステージ)を運営するとき出演者、音響、照明、舞台進行(舞台監督)、舞台上の道具関係という係がいます。さらに演劇では制作者(音楽でもあります)や演出者(音楽ではオーケストラの指揮者です)がいて、その分業で成り立っています。もっと大がかりなものになると対外的な広報や宣伝を専門に担当する人がいます。その出し物を色々な場所で公演するとなるとさらに旅公演のための運営者が専門にいて、旅の予定を組んで運送して仕込んで終わったら撤収して次の場所に移動して、と言う繰り返しを行います。このように音楽でも演劇でも舞台を運営していくというのは多くの分業で成り立っています。そして円滑に運営するためには、それぞれの役割での知識と経験が必要なのは言うまでもありません。 
 日本でも最近は大学でこのような事を教える学部や学科が増えてきましたが、さすがに何でも学問にしてしまって「ええ!!!こんなものにも学位を与えているの?!?」というアメリカではずいぶん昔から芸術学部の中で「舞台」を学科として扱ってきたようです。日本では舞台と言えば能、狂言、歌舞伎ですが、徒弟や世襲で技術や知識や運営方法が受け継がれてきたので、大学で舞台運営を教える必要が無かったのでしょう。徒弟や世襲で受け継ぐというのはある種限られた人に制限して「たたき込む」という感じですが、学問として扱うというのは、一般に広くその技術や知識を公開すると言うことですから、大きな違いだと思います。
この辺にある種の社会性の違いが出てきていますね。限られた人で技術や知識や情報を共有して一般に公開しない事である種の「権威」を形成している日本(アジア的)の風土と、出来る限り技術や知識や情報を広く一般に公開して、そこから優れた人材を育てたり、多くの人が生活しやすい環境を作ろうとする風土の違いが有ります。日本が何時までも「形骸化された民主主義」から抜け出せないのは、その風土の所為なのだと思います。これは何も大きな社会(国など)だけの問題ではなく、地域社会でも有ることです。住民組織が「仲良しクラブ」になってしまって「情報を広く一般に公開して生活しやすい環境を作ろう」と言う目的が形骸化してしまう傾向に有ると言うことです。やたらに「親睦」や「行事」には力を入れるのに、いざ「情報を広く一般に公開して生活しやすい環境を作ろう」という具体的な日常的な取り組みには腰が引けてしまうと言う傾向がいろんなところで見受けられます。
ちょっと余計なことを書きすぎましたが、次はコンサートの準備の様子の話です。  続く

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