アメリカツアー面白話 3

 太平洋戦争終了後、組太鼓の最初の形を作ったのが「助六太鼓」というグループで現在の殆どの和太鼓グループはここから派生しているのです。もちろん今や八潮の代名詞になっている「八潮太鼓之会」もそうです。ちなみにケニーさんは橋口さんとは仲間として同じ時間を共有したようで「みさきさん(橋口さんの芸名)が亡くなったのは残念だった!」と会うたびに言います。八潮太鼓でも上級者は「六面打ち」を演奏しますが、これが助六太鼓を有名にした組太鼓の名曲です。いまやケニーさんのところもそうですが、いろんな和太鼓グループが組太鼓のスタンダードナンバーとして世界中で演奏されています。それだけ多くの人を魅了した曲です。
 そもそも神事や仏事やお祭りやお盆での踊りの為に使われていた和太鼓はアメリカに渡った移民の人たちのコミュニティーでも同じように使われていました。ところが第二次世界大戦の時、移民の日本人は強制収容所に入れられて日本人のコミュニティーはばらばらになってしまいます。すべてを奪われて、戦争が終わった後再度コミュニティーを作り直さなければなりませんでした。そんな中ロスアンジェルスの日本人街(Little Tokyo)では親睦のためにお祭りや盆踊りに力を入れ、そこで和太鼓を叩く何人かの人の中で田中セイイチ(戦後日本からアメリカに渡った方です)さんという方がいました。この方が1968年サンフランシスコで初めて組太鼓のグループ「太鼓道場」を作りました。日本の組太鼓発祥のグループが「助六太鼓」だったようにアメリカでの組太鼓発祥のグループは「太鼓道場」だったのです。組太鼓自体は1960年にすでにアメリカに入っていたようですが、グループを初めて作ったのは田中さんでした。そういうことからアメリカの和太鼓界では皆さん畏敬の念をもって「田中先生」と呼びますし英語では「Grandmaster(日本語では大先生でしょうか)」と紹介します。ただし、一年後にはロスアンジェルスで組太鼓グループがすぐに作られていますので、先駆者というよりも、組太鼓をやっていた仲間がそれぞれ細胞分裂のように独立して新たなグループを増やしていった、というほうが正確なのかもしれません。その最初の人が「田中先生」だったのでしょう。
 さて、1970年頃UCLAの学生になったケニーさんは大学にあった「組太鼓」サークルに参加して活動するうちに、和太鼓の魅力にどんどんはまり込み、和太鼓を人生の最重要なものとして位置づけ、ついには「田中大先生」の主宰するサンフランシスコの「太鼓道場」の門を叩くわけです。地図で見るとロスアンジェルスとサンフランシスコは近そうですが、飛行機で3時間はかかりますので手軽に参加したとは思えません。サンフランシスコに住み込んでどっぷり修行の世界に漬かったのだと思います。根が真面目で誠実なケニーさんはのめりこめばのめりこむほど腕は上がるし、腕が上がればもっと「高み」に行きたくなるし、で、ついには本家本元の日本にまで修行に来ます。現在のハワイに15年、その前10年間日本にいた、と言っていましたから1980年ころには日本に来ていたということなのでしょう。千鶴子さんというやはり日系3世の奥さん(ロスアンジェルス出身の方です。)と勇躍日本へ修行にやってきたのです。 続く。

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